あぁ良い陽射しだ。
桜翁は枝の間を吹き抜ける風を全身に受けてその見事な桜の花びらを風に舞わせた。

春の空は朧
霞がかかったような青空は刷いたように薄く白みを帯びている。
山の春は平野より遅くやって来るが人里から遠く離れたこの山の斜面にも温かな風は吹きわたって久しい。
幾重にも折曲がって続く小道はめったに人が通る事も無いがこの地に咲く桜の美しさは都人の口の端に上る事も多いのであった。
折り重なるように続く小道は里から途切れずに上がりいくつかの峠を越えてやがて都へとたどり着く。
穏やかで暖かな風の中、重なるように咲き競う桜の枝を振るわせて木々は応えるように柔らかな白い花びらを空へと舞わせた。
その中でも小道より一段低い所に根を張った一本の桜樹は見事な桜を身につけるようになってもう随分と長くこの地に生きている。
周りの木々はこの桜樹を桜翁と呼んで敬い慕っていたのである。
たまにこの小道を進む人々は目の下に見える桜翁の見事な桜を愛でまた次の年も・・・と思いを馳せて四季を巡るのだった。

枝を大きく広げて桜翁は今日も花を風に遊ばせていたのだが霞がかったような空の一点から落下してくるものを枝の先で感じたと同時に

パキパキッ パキッ
衝撃と共に細い枝が折られて花びらが舞い散った。

  なんと!途方もない事が起きる事よ。

桜翁がその太い枝で支えたものは幼童であった。
桜翁の上を通っている小道から足を滑らしたのであろうか、衝撃からか意識を手放していた。
桜翁に抱かれて地面に落下を免れた幼童の頬に微かな擦り傷を作ったが他に大きな怪我を負う事も無かったようである。
桜翁は溢れるほどに咲いた花でそっと幼童を抱きかかえた時に幼童の心の内が染み伝わってくるのを感じてそっと頬擦りをした。

    この歳で抱えるにはあまりに辛い事であろう。
    吾が預かっておこうぞ。必要と思うた時には受け取りに来ればよい。

桜翁は一頻り強く抱きしめ幼童を根元に降ろした。

はらり はらり

花びらが幼童の小さな身体を褥のように覆い始めた時遠くから人の声が近づいてくる。
「わこさまぁ~」
「若様ぁ~~」

桜翁は何事も無かったような姿で春の空を見上げていた。


     ★     ★     ★     ★     ★


「吉野に行きたいだと!」
賀茂の屋敷に保憲の声が響いた。
強い声に申し訳なさそうに身体を竦める少年のはそれでも臆する事も無く真直ぐに保憲を見上げている。

庭を抜ける風はまだ冷たいが春が遠くない事を感じさせる柔らかさを含んでいた。
保憲は帝のいる内裏を護る陰陽寮に出仕する陰陽師である。
父の忠行は陰陽寮を充実させた事で帝の覚えも目出度い人物で保憲は後継者として確固たる地位を確立しつつあった。
その保憲に大声を上げさせた少年は「はるあきら」と呼ばれこの年の間に髪を結い揚げ一人前の男として帝に仕えるようになろうかとは周りの噂である。

コホン

己の声に照れたのを隠すためか保憲は一つ空咳をしてはるあきらと視線を合わせた
「晴明。」
出来るだけ穏やかにと心遣う。
「はるあきら」は幼少の頃からの少年の呼び名で有り大人と認められれば「せいめい」と呼ばれる事になる。
所謂 職名であった。保憲は敢えて「せいめい」と呼んだのだ。
「俺は怒っているのではない。吉野に行こうとする訳を聞かせよ。」
保憲の問いに声明は一言応えた。
「呼ばれたような気が致しています。」
「呼ばれた?それは夢では無いのか?」
保憲が思わず問い返してしまったのには訳がある。
この所夢を見るのだ。
確かに夢と認識しているのだがあまりに鮮明なのでつい夢を追った保憲であった。

キャッキャッと朗らかな笑い声が耳元で聞こえる。
一人では無い。
複数の童が楽しそうに走り回り声をあげて笑っているらしい。
保憲は己が立っている所を確認すると辺りを見回せば髪を一つに纏めただけの童が数人楽しそうに遊んでいるのが見えた。
「はるあきら?」
その中に見覚えのある顔を見出して思わず呼びかけたみたが疑念は晴れない。
その童はまるで屋敷に来た時のままに幼い姿であった。

はらり はらはら はらり

桜の花びらが宙を舞う。
童たちは舞い踊る花びらを追いかけ、飛び上がり 駆けながら声をあげて笑う。
保憲も後を追うのだがどうしても追いつけない己に苛立った。
「はるあきら!」
己の声で保憲は目を覚ます。
空が薄らと明るくなり始めていた。
「さて・・・」
保憲は夢を判じようと心を落ち着かせるように目を閉じた。

そのような事が有ったので晴明が呼ばれたと話すのに己の夢を重ねてしまったのである。

「夢ではいけませぬか。」 晴明がぽつりと呟いた。
「いや・・・駄目だと言っている訳では無い。夢占と言うのが有るのだからな。それを判じるのも我らが役目。」
保憲の言葉に晴明の瞳が輝いた。
「では・・行っても宜しゅうございますね。」
「ただし今では無い。」
保憲は首を横に振る。
「考えても見よ。まだ山には雪が残っておろう。もう少し風が温かみを持ってからだ。」
それに・・・っと保憲は少しだけ含んだ笑みを浮かべた。
「一人では遣らぬ。」
保憲の言葉に不満そうな顔を見せる晴明に保憲は断じた。
「まだ童形であろう。童を一人では出せぬのは人として道の理。俺が指導しているのだから俺も行く。」

     ★     ★     ★     ★     ★


時の流れは止まる事無く変化を続け都の大路の木々も若い緑の葉を広げるようになった。
何処ぞの屋敷の桜の蕾が開いた。
あの川の畔の桜は花の色が良い。
殿上人の口の端に花の便りが上る頃、保憲と晴明は屋敷を発って吉野へと向かったのである。
お互いに口数が多い方ではない。
じっと先を見詰めて歩を進める声明の背を眺めながら
そう言えば・・・
保憲は晴明が屋敷にやって来たころの事を思い出していた。
あの頃の己はちょうど今の晴明くらいの歳であったと。
保憲は髪を上げ冠をつけて今は陰陽寮の中でも一目置かれる存在になっている。
大きゅうなった筈であるなっと保憲は童の頃の姿を瞼に浮かべて一人で笑った。

「安倍童子だ。」
父である忠行から告げられ保憲が視線を向ければ巻き上げられた御簾の下に幼童が平伏していた。
同時期に屋敷に入って来た者たちより一際幼く見える。
ついて来られるのだろうか・・・と不安を覚えた保憲の心の内を図ったように童は顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「到らぬ所もあるかとは思いまするが精進させて頂きたいと。」
声変わり前の声は少し甲高く舌の廻りも滑らかとは言い難い。
それでも童子は言葉に違えず保憲や年上の弟子たちに後れを取るまいと常に小走りで学んで行った。
その幼かった童がいつの間にか背も伸びて術も身につけ髪を上げようとしている。

「吉野か・・・」
髪上げの儀式の前にと願った晴明の心の中に何があるのか。
まぁ成るようになるだろうっと保憲は晴明と歩を合わせて前へと進んでいる。


     ★     ★     ★     ★     ★


「はるあきら。」
保憲は小さく名を呼びながら傍らで寝息を立てている少年の髪を梳いた。
吉野の地に足を踏み入れたのは陽が大きく西に傾いていたので小さな庵に一夜を頼んだのである。
時の流れから忘れ去られているかのような庵には眉毛も白い老僧が若い修行僧らしき者と二人だけで住んでいるようで陽が落ちれば聞こえてくるのは風の音ばかりであった。
保憲は一人太い息を吐いた。
「吉野とは言っても広いのだぞ。」
誰に言うともなく呟くと全ては明日と決めて静かに瞳を閉じた。

  ねぇ・・

夢現の中で保憲は幼い声を聞いたように思ったが眠気に負けてまた夢路へと意識を落とした。

   あれは あの時の童よね・・・そうよね

     大きくなったわよね・・・よくここまで来れたと思うわ

   それは翁様が呼ばれたのでしょうよ・・・ あの童が欲しいと望んだ訳じゃないわよね

     翁様が返そうと思われたのよね・・・そうね。きっとそうだわ

この庵に若い娘でもいたのか
朧げなる意識の中で保憲は身体を反転させる。

     翁様のご意思に任せるしかないわよね・・・・

その声を最後に保憲の意識は完全に途切れた。

庵の中に差し込む陽射しに保憲は目覚め傍らの少年を揺り起こし身支度をさせた。
老僧らの心尽くしの粥を食した後に二人は丁寧に礼を述べて細い道を歩き始める。
都では花見宴も開かれようと言う季節ではあったが吉野の桜はまだ咲き始めと言う所である。
それでも気の早い桜は穏やかな風に誘われて花びらを散り舞わせている物もあった。
「なぁ晴明。」
保憲は薄水色の空を見上げながら声をかけた。
「はい?」
応えながらも少年は迷う様子もなく道を進む。
「吉野の何処へ行けば良いのだ?」
「解りませぬ。」
何だそれは!と保憲は首を傾げた。
解らぬと言うには足元は確かではないか。
「呼ばれているのですからその方の所へ行けば宜しいかと。」
少年の応えに保憲は昨夜遅くに夢とも現とも思える中で聞いた声を思い出していた。

   あれはあの時の童よね・・・

晴明は吉野と何らかの関りがあるのだろうか。
保憲が思いを巡らしながら歩を進めていると辺りの風が変わったように思われた。
如何した事かと辺りを見回しても特に何が変わった訳でもなさそうである。
それでも保憲は身に感じる風が異なっている事を感じた。

      来たのね・・・翁様がお待ちよ

   隣の若者は誰かしら・・・あなたは呼ばれてはいないわよ

「誰ぞ!」
保憲は声を上げて辺りを見回した。

あははは・・・キャッキャ・・・ふふ

木々の間から笑い声が響く。
保憲は思わず傍らを進む少年の手を掴んだ。
何となく繋いで置かねば少年だけがこの場所から消えるような気がした。


ザザザァ!・・・・・

風が強くなり渦を巻いて木々の葉を巻き上げて柱を作る。
空も見えぬほどの風に捲かれた木々の枝が擦られて声を上げた。

ハタハタ・・・

保憲と晴明の袖が靡き音を立てる。
二人は風に流されまいと足を踏ん張り袖で顔を覆った。

  これ!悪戯をするでない

声が空から降ったように聞こえた瞬間
風の柱も騒めきも消えた。

シ・・・・・・ン

時が止まったような静けさが訪れた。
ようよう肩の力を抜いた二人の前に一人の翁が立っていた。
「よう来られたな。」
翁の声は穏やかな響きを持って二人の耳をくすぐる。
   人ではない
二人は瞬時に感じ取った。
「晴明を呼んだのはあなたか?」
保憲は晴明を庇うように後ろに下げるとじっと翁を見詰めて問う。
「ぬしは?」
翁は瞳の色を濃くして暫し保憲を見詰めてふ・・っと笑みを浮かべた。
「すまんな。呼ぶつもりはなかったのだがな。」
翁は穏やかに応えた。

さわさわ・・

風が少し騒ぐ。

   桜翁様・・・

優しい響きの声が聞こえ、何処から現れたのか翁の傍に若者が跪く。
翁は若者を見下ろして優しく微笑を浮かべると視線を保憲たち二人に戻した。
「その少年が童の頃であった。吾は預かりものをしたのだ。」
翁の声に保憲は眉を顰めて考える。・・・・いつの頃の話だ・・・
「その童が大きゅうなって必要と思えば取りに来ればよいと考えて居った。」
しかし・・翁は言葉を止めて晴明に視線を投げる。
「吾の命数が危うくなったのでな。このままでは預かりものを持ったまま逝く事になりかねぬ。」
そこで呼んで質そうとしたのだと翁は言う。

アハハハ・・・
朗らかな笑い声が上がった。声の主は晴明。
「翁様。何を預かって頂いたのかも解らぬ。解らぬ物を要るか要らぬか・・・私に解るはずもありません。」
翁はゆっくりと首肯した。
「たしかにな。ぬしは賢く育ったものよ。」
「今日この時まで無くても障りが無かったものです。返して頂いても益になるとも思えません。」
「それでも問わねばならぬ。吾が逝けば二度と戻す事は出来ぬゆえにな。」
翁の応えに声明は口を閉じて暫し思案に入った。

さわさわ・・・
穏やかな葉擦れの音だけが辺りに聞こえている中
晴明はふっと眉を上げて翁を見た。
「翁様。」 晴明が口を開いた。
「私がお預けしたと言う物は・・」
「返してもらえ。」
保憲の声が声明を遮った。
「そこの翁に悪しき気は感じられぬ。」
保憲の言葉に声明は小さく頷いて同意を示した。
「その翁が返すと言う物が悪しきものでは無い筈。もしも・・もし悪しきものであったとしてもだ。」
保憲は言うと唇の端を上げて含み笑いを浮かべて更に言う。
「それもおまえの一部という事であろうぞ。どうしても障りになるとなれば俺が忘れさせてやる。」
保憲の言葉に眉を開いた晴明は翁に向かって言った。
「お返しいただきまする。」
晴明の応えに翁は小さく頷くと傍らに跪く若者の肩に手を添えて静かに語り始めた。


まだ足元も覚束ない幼子であったよ。
只管先の一点を見て走っておったのだが足元の小石に気が付かなんだ。
小さな足が小石に乗って・・のう
体勢を崩して道を外して、忽ちまろび落ちたのだ。
その時支えたのが・・・ほれ
ここにいる若者よ。
しかし当時は本当に若木だったので支えきれず根から倒れそうになってな。
我が身を守る為に幼子を投げ上げたのよ。その投げ上げられた幼子が落ちたのが・・・

「あなた様の上であったと・・」
保憲が口をはさむ。
翁は苦笑いを浮かべながら頷いた。
「吾の枝木もいくつか折れたがの。どうにか地面に敲き付ける事はしないで済んだと言う訳だ。」

・・さて・・・晴明であったか・・・
翁は晴明をしっかりと見据えた。
「預かりものを返そうと思う。受け取りたくば吾の手を。」
翁は両の手を晴明に広げて招く。
   トン・・・
保憲にそっと肩を押されて晴明は翁の掌に己の手を乗せた。
翁は軟らかく握った後に慈しむように背中を抱く。
晴明は目を閉じて頬を翁の胸に預ければ辺りを風が覆い包む。

ザァァァァ・・・・・

葉擦れの音が大きくなり風巻きが起きて翁と晴明を包み込んだ。
保憲はぐっと足を踏ん張り、目を逸らさずに視線を定める。


・・・・幼い頃であった。まだ母の温もりが欲しい頃であった。・・・・
共に暮らしていた屋敷から母が去って行く。
名を呼びながら走った。 姿が見える限り走った。 なれど・・・
     母は振り返らない。 名を呼んだ。 目尻から涙が零れた。
走った。 足が痛かった。 先ばかり見ていたので足元の小石に気が付かず踏み誤った。

気が付けば崖をまろび何かに落ちた。 ふわっと空を飛んだ。
見えるものは水色の空と舞い飛ぶ桜の花びら。
視線の端を母の姿が遠ざかる。 母は振り向かなかった。

バキバキッ・・・
枝を折る音と衝撃
晴明が一声漏らしたのは痛みではなく疑問であった。
何故・・・


翁の胸の中で閉じた瞳の端から涙が一筋の道を記した。
その髪を翁の手が優しく撫でる。
「辛かったであろうなぁ。吾も思えば胸が痛む。」
翁の声が晴明の耳元で囁く。
こくり・・声明は頷いてから緩やかに左右に首を振った。
「お返し頂いて良ぅございました。」
「強ぅ育ったのだな。その身を慈しみ育ててくれた者が傍にいたのはありがたい事ぞ。」
晴明の言葉に翁は応える。
こくり
晴明は大きく頷いた。
「ならば晴明よ。」
翁は晴明の身体から量の手を離した。
「間に合うて良かった。 これで別れとなろう。」
声とともに翁は姿を消し年を経た桜の老木が満開の花をつけている。

   さらば・・だ

声と共に桜は空へ舞い上がり水色の空を薄桃色に染め風が渦を巻いた。

ドドォォッ!
地を揺るがす音を立てて老木は大地に倒れた。
はらはら・・はらはら・・・・
辺りに花びらが舞う

微動だにしない晴明の肩に保憲の手が添えられる。
「翁殿の命数が尽きたのだろうな。」
保憲の声に声明は思う。
その尽きる命を懸けて己が預けたものを返してくれたのだ・・と

「消すか?」 保憲が土風の中でぽつりと口にした。
「いいいえ。暫くはこのまま・・。」
晴明の応えに保憲は穏やかに視線を戻した。

「戻るぞ。」保憲が言う。
「はい。」晴明が応える。

花びらは舞っている。
風は吹いている。

生い茂る木々の間から温かい眼差しを感じながら二人は都への道を歩み始めた。


倒れた老木の脇にポツンと若芽が出ていた事を二人は知る由もなかった。
 
                   
                   完

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