穏やかな春の空は薄く霞をかけたように広がっている。
温かな風が仄かに吹き渡りその風の中を桜の花びらが舞い踊っていた。
花びらの行方を追うように視線を巡らしたのは時の帝 村上帝である。
その口元には有るか無しか・・・笑みが僅かに刻まれているのを見る人はいなかった。

遥か昔 桓武の帝が平らかなれと願って開いた平の都も長い時が過ぎた。
時が過ぎれば変わる物も多かれ少なかれ有るのは致し方のない事。
村上帝が今立っている場所にある桜の木も元々は無かったものである。
内裏の中心的建物である紫宸殿の前庭には西側に橘の木・東側に梅の木が植えられていた。
長い年付きの間に何度か焼失した内裏であるが新しくなってもこれは変わらず季節を愛でる貴族たちの目を楽しませて来たのである。
そして
村上帝も何度目かの火災に遭って紫宸殿が新しく建ったのは二年ほど前の事であった。
その時にも西に橘・東に梅
これは変わらなかったのである。
ところが
橘の木は根を広げ前庭で成長をして行ったのであるが梅の木は根を広げる事が出来ずとうとう枯れてしまった。
これでは行かぬと帝の側近は新たな梅の木を探し求め見事な枝ぶりの梅の木をこの前庭に植える事が出来たのであるが・・・


「此度の梅は晩生なのかのぅ。」
「ほんになぁ。まだ蕾も堅いままのようだの。」
春の気配が感じられるとは言え夜になればまだ冷える。
宿直の者たちは揺れる灯の傍で手火櫃を抱え込むように輪になって囁き合っていた。
帝はとうに奥へと退座されているので気兼ねは無い。
眠気を振り払うように白湯を飲み唐菓子などを齧って取り留めのない話題に終始していた。
「清涼殿の方の紅梅はもう花開いておったわ。」
顎髭が立派な男がそこに有るように言う。
「おぅ!確かにな。典薬寮の脇の白梅も良き香りを広げて居った。」
細い目をさらに細くして歳高の男が鼻をヒクヒクさせる。
そうよなぁ・・・
一同は頷くとそっと階の向こう側に見える梅の木を見やった。
紫宸殿の東に植えられた梅の木は固く蕾を閉じたまま開く気配も見せていない。
他の梅が散ったころに咲く気なのだろうか等と他愛も無い事を考えている分には何も被害が起きないのだが事はこれで終わらなかった。


ザッザッザッザ

建物の脇を進む足音が進む。
内裏を警護する近衛の見回りである。
先頭を行く者の手に掲げられた松明の炎が闇の中に影を作っていた。
夜も更ければ寒さも増して蔀は閉じられ宿直の男たちの声も聞こえては来ない。
「なにも変わりは無いようだな。」
松明を持つ男の後ろにいた者から声がかけられた。
「当たり前だ。そうそう変事が起きたら堪らんわ。」
振り向きもせず応えた男はチラッと松明に目を向けた。
共に紫宸殿が燃え上がった日ををこの目で見ていたのであるから松明の火の粉が遠くに飛ぶようではいけないと思っている。
幸いにもこの夜は風もなく松明の炎も大きな揺れを作る事は無かった。
「ん?」
先頭の男の足が止まった。
「如何した?何かいるのか?」
後に続く男は立ち止まった男の脇に足を運ぶ。
松明を持っていた男は黙って松明を持つ手を伸ばして先を照らそうとしている。
「誰ぞ。」
声に緊張が含まれていた。
その声に釣られるように後の男も視線を先に向けてみた。
二人の先に有るのは階。
その向こう側には梅の木。
宿直の元たちが晩生だと囁いていた梅だ。
その木の下にほっそりとした姿の女人の影を見た・・・ような気がする。
「このような刻限に如何致したのか。」
松明を掲げながら男は一歩梅の木に近づいた。
見間違いでは無かった。
豊かな黒髪に合わせを着た若い女人が袂をで顔を隠してさめざめと泣いていたのである。
「主に叱られて戻れぬのか?」
「ならば我らが誘ってやっても良いぞ。」
二人の男はホッとしたように女人に近づこうと足を進めた。
その刹那
スーッと影を薄くして女人の姿は見えなくなってしまったのである。
「わぁ!!」
男の手から松明が落ちる。
「怪異じゃ!」
もう一人の男は腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
暫し動けないまま震える男たちの間を微かな風が吹き抜け甘い梅の香りが僅かに漂って・・・
消えた。


近衛の者は誰にもその話はしなかった。
警護の者が怪異に恐れを成したと知れたらお笑い種である。
にも拘わらず一夜が明けた朝議の席では殆どの者は知っているらしく口元を扇で隠しながらも互いに囁き合って意味ありげに頷いたりしているのだ。
「見間違えたと言う事では無いのであろうかの。」
おっとりと一人が言えば
「見目の良い女人であったと言うではないか。」
「話はそっちへ曲がるか。」
別の二人がそっと言い合ってひっそりと笑う。
朝議の後はこの話で持ちきりである。
収まりがつかなくなった所で
「今日の宿直の者に確認をさせてみては如何か」と声をあげた者がいた。
「それは良きお考え。」
「真に女人が現れるや否や。」
やんやとその場にいた者たちは手を打った。
「どうだ。その場に一人陰陽寮の者を呼び寄せてみては。」
思案深げに声をあげたのは今まで口を挟まなかった細身の男。
「怪異であろ?宿直の者だけではちと心許ないではないか。」
「おぉ!たしかに。」
「たしかに。」
皆 自分がその場にいる事は無いと分かっているだけに同意を示した。

こうしてその日の夜の闇が辺りを包む頃
宿直の者は幾分引き気味に恐る恐ると固まって位置について腰を下ろす。
階の下には陰陽寮から呼び出された陰陽師が一人。
どうやら寮での宿直だったようである。 些か不満げであった。
「のう まだ出ぬのかのう。」
一人が肩を竦めて前庭へと視線を送る。
「な~に。近衛の見回りが来るまでにはまだ間があるに。」
豪胆そうに応えた男は庭を見ようともしない。
やがて会話も尽き寒さが身に染みてきた。
蔀を閉める刻限ではあったが今宵は怪異とやらを見定めると言う役目も有る。
早く夜が明けてくれぬ物か
思いは同じなれど口には出来ぬ。


すぃ・・・
何かが動く気配を感じた。
「ひっ!」
宿直の一人が息を飲む。
「あれは陰陽寮の者であろ?よく見ぃや。」
諫められて一同が庭へ視線を向ければ階の端に浄衣を纏った者が一人立っていた。
小石を踏む足音も立てずにスッと梅に近づいた時うっすらと女人の影が浮かび上がっているのが見える。
ざわっと宿直の者たちが動いたのを見逃さず浄衣の男は一言。
「お声を出しませんように。」
宿直の者は我に返って殿上人であると思い出したか鷹揚に顎を引いて了承の意を示した。
「さて・・・」
浄衣の男は梅の木の下に立つ女人に声をかける。
「何故に泣かれるか。」
袖で目の端を拭っている女人は暫し声も無くさめざめと泣き続けた。
「訳がお有りなのであろうほどに。」
浄衣の男の声に女人はふっと袖を下ろして男に視線を向ける。
「主の・・」細い声が応えた。
「主の?」
「主の元へ・・・」
「主の元へ?」
浄衣の男は焦るでもなくゆっくりと女人の言葉を待っている。
「主の元へ・・・も・・」

ザッザッザッザ
忙しなく響いて来たのは近衛の夜回りの足音であった。
一歩毎に近づき音は大きくなってくる。
「チッ!」
浄衣の男は軽く舌打ちをすると近衛の者がやって来る方へと身体を向けた。
「お静かに。」
わぁー!!!
浄衣の男の声と近衛の者の声が重なる。
腰の太刀に手をかけている気の早い物までいるのに浄衣の男は眉を顰めた。
「怪異じゃ!」
近衛の者たちは声を上げその騒ぎに宿直の者たちも浮足立っている。
「主に・・・」
細い声に浄衣の男は再び梅の木を見やった。
「主に・・・」
袂で目の端から流れる涙を拭いながら女人は闇の中へと消えて行った。
やれやれ・・・
浄衣の男は肩を落として周りを見回し一言。
「今宵はこれで仕舞いにございます。」


何とも収まりのつかない騒動から幾日かが過ぎた。
その間も
確かに見たと言う者や自分が行った時には何事も無かったと言う者。
様々であったがこの騒ぎはやがて村上帝の耳にも届き近臣の者を慌てさせた。
落ち着かない心持で皆が過ごしている時に陰陽寮の頭から奏上書が朝廷へとあげられて来たのである。

梅の木の下に現れる女人は悪しき者では無い事がまず綴られていた。
人に思いを伝えたく梅が化身して姿を現したに過ぎぬのだと。
そして
西側の橘とは違い若木であった梅はただただ悲しいと訴えているだけである。
何故ならばこの梅の木を慈しみ育ててくれていた主がいるからだ。
主の優しき心がひたすら愛おしく、この身は主の元へと戻りたいと語る。
若木故に思うに任せず姿を現して訴える事が儘ならぬ事に焦れてしまうのだ。
よって姿も薄く声も小さく、人に届く事も思うようには行かない。
祟る気も無ければ恨む心も無いが主の元へと帰りたい。

面々と綴られた奏上書を朝議の席で読み交わし
さて・・・如何したものか
その場にいた者たちは首を傾げた。
仮にも帝の元へと献上した梅の木である。
差し出した者とて返して欲しいと言って来ている訳ではあるまい。
そのやり取りを御簾の中で村上帝はじっと聞いていた。



「哀れではないか。」
御簾の向こう側から声がかかり側近の者たちは一斉に御簾の向こうの村上帝へと身体を向けた。
「この国に有る物は全て朕の庇護のもとに有る。 そうであったな。」
村上帝の言葉に一同は首を縦に振った。
たしかに・・そう言う事になっている。
「ならば悲しむものを見逃しには出来ぬ。 人ならぬ身で恩を忘れず慕うは政を成す者として褒めこそすれ蔑ろには出来ないであろ?」
側近は否定できなかった。
「返してやれば良い。」
村上帝の言葉に一同は黙って頭を下げた。
「それから・・・持ち主を咎めてはならぬぞ。」
村上帝は言葉を継いだ。
「その者とて国を思い政に思いを馳せ良かれと差し出して来たのであろ。」
村上帝は穏やかに側近に視線を向けて言葉を終えた。
こうして
東に植えられていた梅の木は良き日を選び、土公神の祀りを行った後に元の持ち主に帰された。
さて この空いた所をどのようにしたら良いか。
これが側近の悩みであった。
梅を探さねばならないのか。
また泣くような事でも有ったら今度こそ自分たちの立場と言う者が無くなるではないか。
村上帝もまた考えていた。
紫宸殿の前庭に相応しいのはやっぱり梅の木なのであろうか。
前例を変える事が有っても良いのではないか。
では・・・何を植えれば良いのか。

臣は臣として帝は帝として為すべき事は何か。

村上帝の意識の中に忘れる事の出来ない男の姿がふっと思い起こされる。
己が天皇になる以前、まだ東宮にさえ成る前の数多い親王の一人であった頃
大路で出会った年上の男・・・
あまり口数は多くは無かったがその眼差しは柔らかであった。



村上帝には数多の兄弟がいた。
兄とは言っても歳が離れていれば同じ空間を過ごす事は殆ど無い。
また歳が近しくても母が違えば自ずと環境は異なる。
天皇の子供だからと言って即親王宣下が行われると決まっている訳でもない。
村上帝は幼くして親王となったが東宮になった訳では無かった。
その為にやんごとなき生まれであるのに不自由はなく供はついてはいたが屋敷の外へ出向く事が多かった。
村上帝にとって玉座は遠いと言うより縁なき物として存在しているに過ぎなかったのである。
しかし
天皇の子供として生まれれば玉座を望む者がいるのは致し方のない事で、そうした者は密かに策を練っていたりする。
己の考えを元に東宮に選ばれそうなものを排除しようと考える者もまた居たのであった。
母親の違う兄弟は其々の後ろ盾を頼りとして玉座にたどり着こうとしている。
後ろ盾になった者は元々その心算で娘を後宮に差し出しているのだ。
後の戦国の世のように表立った争いは起こさぬが目に見えぬ所でその策は暗躍していたのである。

どの兄が村上帝を亡き者としようとしたのか・・・これを村上帝は知らなかった。
「ただ・・・きっとあの男は知っているはずだ。」村上帝は一人胸の中で呟く。
それは、まだ世の仕組みも淡く朧げにしか理解できない頃の事。
陽気に誘われて村上帝は何時ものように屋敷から出かけた。
のんびりと大路を牛車で下っていたのだが、突然狂ったように牛が暴走を始めた。
牛についていた供の者は振り払われ大路に倒れながらも声をあげている。
後についていた臣も慌てて走り牛車を追った。
常日頃は、歩いた方が早いではないかと思うほどゆったりとした歩みの牛が別の生き物のように車を引いて駆け続ける。
このままの状態が続けば車は外れる。
大きく倒れれば村上帝は下敷きとなってこの世と別れなければならなかったかも知れない。
運が良くても大怪我だ。
何よりガタガタと揺れる車の中で御簾越しにみる風景が常と違う事に村上帝は恐怖を覚えたが、どうする事も出来ずに車の窓にしがみ付いていた。
供の声が後ろから聞こえているが何を言っているのかさえ理解できなかった。
もう駄目だ
観念した時に現れたのがあの声だった。
穏やかでありながら緊張を含む声が前から聞こえたと思った途端に牛の歩みが緩やかに変わったのだ。
やがて牛は歩みを止め、それと共に車も大路の端へ止まったのである。
ほぅッ
肩の力を抜いた村上帝の目の前の御簾があげられ一人の男が覗き込んできた。
一瞬「無礼な!」と思ったが車が止まった事の方が嬉しかった。
わらわらと牛引きの供や家臣が駆けてくる。
「牛が何かに驚いたのでしょう。」
男は薄く笑って家臣に伝えるとその場を去って行った。
村上帝の求めに応じて名乗りをしてくれたその男の名は安倍晴明。
あの時はまだ白身であった。

その後、村上帝は皇太弟になるのだがそれまでの間に何度か交流を重ねた。
そして・・知ったのである。
あれは決して牛が何かに驚いたのではなく何者かが仕掛けた呪術であった・・・と。


風が春めいてきた午後の事。
村上帝は文机に肘をついてホッと小さく息を吐いた。
帝の居室である。
私的な空間とは言っても室の向こう側には近臣の者が侍っているのは常の事。
さて・・・どうしたものかと思案している所へ几帳越しに見える御簾に影が映った。
些か丸みを帯びたその影はゆっくりと平伏をして村上帝からの声を待っている。
「・・た・・忠行・・・どの。」
裏返った声に村上帝は思わず苦笑った。
やれ・・このような事では腹に企みを持つ事も叶わぬ。
大きく息を吸って村上帝は陰を誘った。
御簾が僅かに上げられ歳高の男が音もなく室内に入ってくる。
「良ぅ来てくれた。」
村上帝は男の手を取らんばかりにして歓迎の意を伝えれば
「時の帝からお召の命が有れば来ない者は有りますまい。」
口元に穏やかな笑みを刻んだ男はおっとりと応えた。

男の名前は賀茂忠行
賀茂家の当主である。
朝廷に仕える陰陽寮の陰陽師を束ね、より体系化した男である。
今は寮を退いて若者の育成に余念がない。
悠々自適な毎日を送っているようだがその影響力は侮れない物が有った。
「忠行殿。」
村上帝は上目遣いに忠行を見詰めると
「今は・・この時は玉座にいるものでは無く昔のように保明として思ってはくれぬか?」
甘えるような言い方に忠行は声を立てずに笑うと頷いた。
「皆は少し座をはずしてはくれぬか。」
室の向こうへと声をかけると人が立ちあがりざわざわと衣擦れの音を残して遠ざかっていく気配がした。
それでも全く去ってしまう訳は有るまい。
忠行は音を追うように気配を探った。
「忠行殿。」
村上帝は焦れたように忠行に視線を定める。
「あの者は・・晴明はどうしているのでしょうか。」
村上帝の問いに忠行はしばし沈黙を守った。
「何故のお訊ねなのかはお聞きしないでおきましょう。」
ゆっくりと忠行は応える。
「晴明は陰陽寮におりまする。」
パッと村上帝の表情が明るくなった。
「ならば忠行殿。呼び出しても良いという事であるな。」
村上帝の言葉に忠行がゆっくりと首を横に振った。
「それは政の上から考えてあまり良くはありませぬ。」
「何故だ。」
「あなた様が保明親王では無く帝として玉座にいらっしゃるからでございますよ。」
忠行の応えに伸ばしかけていた手をそっと引いた村上帝は頭を垂れた。
「あれはまだ寮では下仕事の身です。公の祓いにも出ておりませぬ。
そのような地下の者を帝が政の祓いに関わる用でも無いのに召し上げる。
これが如何なる事か。 お判りになられますか?」
村上帝は下を向いたままコクリ・・と頷いた。
「晴明は能力が無いのではありませぬ。それでも下仕事の身なのです。
政と言うのはそうした物です。」
諭すように忠行が言葉を継ぐ。
「有って欲しくはありませぬが・・
あなた様が帝として真に必要だと思われて晴明を召し上げる時
あれは誰よりも働く事でしょう。」
村上帝が忠行の顔を見上げた。
まぁ・・・忠行が苦笑う。
「あれが本気で寮の中の位置を確保する気が有るのなら・・・ですが。」
「怠け者なのか?」
呆けたように村上帝は問うた。
「怠けたいのではありませぬ。他の者たちのような出世欲がないのです。
これはこれで困った事なのですが。」
二人は思わず視線を絡ませて声をあげて笑った。
「よい。よいのだ。この都の為に必要な時には嫌だと言っても召し上げて見せる。」
村上帝は御簾の向こうに陰陽寮があるかのように睨みつけた。
「帝が召し上げて拒める者はおりませぬ。だからこそしっかりと見極める事が出来る様ご精進頂きたい。」
忠行は言い放ってからそっと室の向こう側へと視線を送った。
息を飲んで控えて居る者の気配がする。
やはり案じて近くまで来ておったか・・・
「やれ 玉座と言うのは窮屈な物よ。」
村上帝は小さく呟いた。
「確かに・・」
忠行も囁くように同意を示し二人はもう一度声をあげて笑った。



「桜の木を植えたいと思う。」
村上帝は声を発した時薄水色の空に白い花が花びらを広げるのを見た気がした。
朝議の席で紫宸殿の前庭にあった梅の木が無くなり如何様に今後対処するかが思案されていた。
「梅の木では?」
近臣の者がそっと問いかけて来た。
「桜だ。」
村上帝は応える。
怪訝そうに朝議の者たちが小首を傾げたが、面と向かって反論する訳にもいかず視線だけを御簾の向こうの玉座に向けていた。
「畏れながら・・・。」一人が声をあげた。
「何故に桜にござりましょうや。」
「不満か?」
「そうではござりませぬ。何故に梅の木では成らないのでしょうや。」
ふむ
村上帝は顎に指を添えて暫し言葉を探した。
・・・さぁ!ここからが正念場ぞ。政に相応しく・・・な。
「この国は隋や唐の新しき知識を取り込んできたな。」
「是。」
「その事を否定しようとは思わぬ。また ありがたい事とも思う。
梅が南都の昔から愛でられてきたのはその為だと朕は思う。」
村上帝は腹に力を込めた。
政が政として滞りなく進むには理が必要である。
「仰せの如くに存じておりまする。ならば梅で宜しいのではありませぬか。」
他の者も曖昧に頷く。
「二位の右大臣が申しておったの。」
村上帝の言葉に場の空気が凍り付いた。
誰とは言わぬ。
言わぬが二位の右大臣と言えば彼の菅原道真だと誰でもが知っていた。
怨霊となって祟りを成したという状況を知らぬ者はない。
皆の気持ちの中に逆らいたくはないと言う思いが生まれた。
「唐は一時の興隆は無く衰えていて得るものは少なくなったと。」
村上帝は少々人の悪い笑みを刻んで言った。
「確かに・・そう聞き及んでおりまする。」
「しかし。」
別の者が声をあげた。
「彼のお方は梅を愛でておりました。」
恐ろしいのか道真の名は口には出来ぬようだ。
「それは二位の右大臣が唐が繁栄していた頃を慈しんでの事だと朕は思う。」
本当のところは解らない。
解らないが本人はこの世のものでは無いので尋ねる事も出来ぬ。
戸惑うように平伏する者を見て村上帝は小さく息を吐いた。
先ほど感じた水色の空に桜は咲き競っているが待ち人は現れてはくれない。
・・・もそっと進めねばならぬか。玉座は窮屈な物だのう。・・・
「歴史は・・。」
村上帝は声を改めた。
「継いで行かねばならぬと朕は思う。しかし築いても行かねば成らぬのではないか。
皆は如何に?」
「真 仰せの如くにございます。」
朝議に集まっていた者は同意を示した。
「唐が衰えて行こうとも、この国は共に衰えてはならぬ。
この国が独自で生んだものは数多ある。
この国でなければ出来ぬ事も有る。
政をする者は良く鑑みて更なる繁栄を模索しなければならないと朕は思うのだ。」
村上帝は一気に畳み込んでみた。
「真に仰せの如くでございます。」
再び一同は同意を示し頭を垂れた。
しかし・・なぜに桜なのだ。とも思う。
「嵯峨帝が見惚れた花ぞ。」
村上帝は見越したように声を発した。
「桜は遥か昔からこの国に有った。
この国は独自の道を進むのだと自らを戒めるためにも政を行う建物の前庭に桜を植える。
これにおかしな所は無いと思うが・・・な。」
最後は少々声が小さくなったが押し切れるはずだと村上帝は思う。
何しろ根底に帝の言葉だと言うのがある。
政と言うのはそういう物だ。
案の定、それ以上の問いかけは誰の口からも出て来なかった。


それから数日
村上帝は桜の話を一切口にしなかった。
・・・緩くして置くところはゆるゆる・・とな。
あまり堅苦しく道を作っては却って反感も買う。
政に携わる者が自ら思案して決めたと言う思いを抱くように進めねばならない。
・・ここが忍耐よのぅ。 真に窮屈であると考える吾はまだ未熟と言う事であろうな。
村上帝は一人苦笑った。

その頃
参議を初めとする朝議の面々は其々に行動を起こしていた。
桜の木にすると言うのは解ったが
さて
どのような木を何処から召し上げれば良い物か。
先般のように泣くような木では困る。
何やら悪しき謂れが有るなどとなるのは論外だ。
心は其々に千々に乱れる。
試行錯誤を繰り返し、朝議の意見は一致した。
「吉方を占わせその地の桜を召し上げる。」
これに村上帝は異論を挟まず首を縦に振った。
早々に陰陽寮へと使いの者が走る。
事の結果は陰陽の頭から奏上が来てからという事になった。

ここまで来れば・・・
陰陽の頭と賀茂忠行はきっと上手くやってくれるだろう。
村上帝はそっと口元を隠して笑った。


あの語らいが最後であったか・・・
村上帝は奥の居室で独り言ちた。
「桜が散り始めておったなぁ。」
小さく呟いてみる。

先帝の御世の政が不穏に動き始め先帝は身も心も患われてしまわれた。
数多の親王の後ろ盾が其々に思惑を抱いて動き出す。
村上帝は先帝の弟ではある。
母方の者たちが何やら落ち着かない事は感じていたがそれほど深刻に考えはしていなかった。
そのような時期に賀茂の薬草園で村上帝は白身のままでいる晴明と桜を愛でていたのである。
陽が中点を過ぎ西に傾くころ二人は別れを告げた。
「次は何時の頃になろうかの。」
甘えるように村上帝が晴明に問うた。
「そうでございますなぁ。」
応えた晴明が刻んだ笑みに明るさだけでは無いものを感じて村上帝は思わず晴明の袖を掴んだ。
「決めては貰えぬのか。」

心地良い風の中を舞い飛ぶ桜の花びらに視線を向けて晴明が言った。
「私は、あの空にある雲のように生きたいのです。」
村上帝の視線の先を桜の花びらが舞う。
「あなた様はきっと上られます。」
「どこへ上がると言うのだ。晴明。吾はこのままで良いと思っている。」
村上帝は納得できず晴明の肩を掴んだ。
振り払うような事はさすがに無かったがそっと距離を置いた晴明はぽつりと言ったものだ。
「先見の力は時に疎ましくもありますが・・その私が言うのです。」
村上帝は晴明を見上げた。
「あなた様は上られるのです。」
村上帝は声を出せなかった。
・・そうか。上らなければならないのか。

はらはらと桜は散り
花びらは薄水色の空を舞い踊る。
ゆっくりと陽が陰っていく中で晴明は深々と頭を垂れて去って行き振り向く事は無かった。


やがて・・・保明親王だった若者は村上帝となった。
あの空に舞う桜の花びらは即、晴明の哀しみを含んだ笑顔と重なる。
あの哀しみは己の身では無く村上帝の身を哀しんでの事だと今なら解る。
玉座と言えども思うままになる事ばかりではない。
いや。思うにまかせない事の方が多いのだ。
「だからこそ此度は色々と考えたのだぞ。」
今のところ上手く事は進んでいると村上帝は思う。
・・・あとは陰陽寮の頭からの奏上だな。
村上帝は袖の中で固く拳を作った。


「吉方位は巽。」
奏上書が届いた。
事は動き始めるのだ。
階の下で陰陽頭が畏れながら・・・と声を発した。
村上帝の御簾近くに侍る者が直答許可の所作をする。
「この巽は実に目出度い方位にございます。」
頭は視線を地に向けたまま言葉を継いだ。
巽とは南東に事である。
季節にすれば春から夏に向かい、時刻にすれば陽が中点へと向かう頃という事。
まさに勢いが満々と満ちて行く事を指し示す方位でもあった。
「そのような次第にございます。」
言い終えて頭はもう一度頭を垂れた。
こうして内裏から巽に当たる場所に桜を求める事となった。

村上帝は声も堪えて笑みを浮かべる。
事は成ったのだ。・・・と思う。
内裏から巽
その方向にこそ賀茂家の薬草園が有ったのだ。
数日を経ずして賀茂家から桜の木献上の書が朝廷へとあげられた。
畏れ多くも・・・っと当主らしからぬ慇懃な書き出しで始まる書に村上帝はいかにも・・っと
難し気な表情を保つのに苦労したものだ。
・・・此度の梅の騒動のような事で再び朝堂を騒がせるような事態が起きてはならない。
よって土地に執着もなく、育てる世話をした者との交わりも少ない若木を選び出した。
この若木が内裏の庭で見事に成長して行く事は御世が弥栄に続く事となる。
   賀茂家当主忠行の書に一同は大きく頷く事となった。
良き事は早々に進めるのは必定と植え替えの日時の吉凶を陰陽頭は求められ、頭は寮へと急ぎ戻って行った。

程なく
紫宸殿の前庭の東に桜の若木が植えられた。
西側の橘と比べるまでもなくその若木は細く背も低かった。
村上帝の近臣は
「ちと貧弱ではないか。」
「これで花が咲くのかのう。」
ひそ・・・と扇の陰で言い交す者もいたが村上帝は満足であった。
「この若木は背を伸ばし次の春にはきっと花をつけようぞ。若木に負けぬよう都を護るのが皆の務めぞ。」
皆が平伏するのを見ながら村上帝はそっと呟く。
「そして・・この吾もな。」
桜の若木が音もなく枝を揺らした。



穏やかな春の空は薄く霞をかけたように広がっている。
温かな風が仄かに吹き渡りその風の中を桜の花びらが舞い踊っていた。
花びらの行方を追うように視線を巡らしたのは紛れもなく村上帝である。
その口元に浮かぶ僅かな笑みは満足げであった。

同じ時を生き、同じ都に住む
吾は、晴明お前が言ったように上がったぞ。
吾は先見の才は無いが・・・晴明 お前も上がって来よ
そして
その時にはまた共に桜を愛でようぞ。

はらり はらり
まだ細い桜の若木は精一杯花びらを散らす。
その行方を村上帝は飽きもせず眺めていた。



                 - 完 -























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