透けるように薄い闇の帳が重ね重なり合って気が付けば都は深い夜の暗がりに覆われていた。
吹き抜ける風の流れは身を切るような冷たさで枝ばかりとなった木々を揺らして過ぎて行く。
大路・小路を示し照らすのは瞬く星々と満月のは少し欠けた月の青い光だけである。
人々が行き交う姿も見えず聞こえてくるのは遠く山狗の長鳴きくらいのもの。
都と言えども夜の闇には抗う術もないのだが・・・

夜には相応しくない明るい笑い声が大路に響き何やら声高に会話をしながらの快活な足音が続いていた。
「今宵も上手い事行きましたね。」
少し甲高い声が聞こえる。
「ましてや殿上人と出会うなど。」
若いがしわがれた声が言うと、くつくつ・・・笑いで肩を震わせる。
「さすがは保憲様。整えに抜かりは無い物ですね。」
澄んだ若い声の持ち主がわずかに年上と見える若者を見上げながら言った。
保憲と呼ばれた若者は顎を引いて応えたが照れているのか曖昧な表情を浮かべている。
「今宵は上々と言う所で良いのではないか。」
保憲は言うと足を速めた。
若者四人が向かうは保憲の父賀茂忠行が陰陽師を育てるべく多くの若者を住まわせている屋敷である。
当時
帝が住まいこの国の政務を執り行う大内裏には陰陽寮が設けられていた。
中務省に属するこの寮には数多の人が出仕していたが陰陽師はまだ神祇官より低く見られているのが保憲は気に入らない。
賀茂忠行の能力は認められながらもまだまだ不安定な位置であった。
その為多くの若者を屋敷に留め才ある者の研鑽に勤しんでいた。
この朗らかな笑いを放つ若者も屋敷内で学ぶ者たちであり保憲は忠行の嫡男である。

なおも声高に会話を交わし豪快に笑いながら四人の若者は屋敷の門を潜って行った。


賀茂邸に入った若者たちは厨へと入り込み椀に酒を注ぎ先ほどからの興奮を収める様子もなく盛り上がっている。
そんな三人の若者たちに背を向けて保憲は己の室がある対へと足を向けた。
右の手には酒の入った椀。
左の手には白湯が入った椀
懐には昨秋に作った干し柿が入っている。
季節とともに残り少なくなった干し柿が落ちないように懐の奥にしっかりと抜かりなく仕舞ってきた。
保憲も機嫌が良い風で何やら催馬楽らしきものを口ずさんでいる。
軽やかな足音を立てながら保憲は渡廊を過ぎ対の庇を進む。
蔀戸の隙間から揺ら揺らと灯が見えているのを確認すると口の端に笑みを刻んで保憲は室の奥へと声をかける。
「晴明 起きておるか。」
中からの応答も待たず保憲は右肩をスッと差し入れて室の中へと入り込んだ。
ゆらゆらと灯が揺れともなって影も床を移動する。
小さな手炙り用の火桶の傍に幼童がちょこんと足を投げ出して座しているのを認めると保憲は満足そうに笑みを刻んでどっかりと童の前に腰を下ろした。
「ほれ。」
言いながら白湯の入った椀を童の前に置く。
自分の前には一緒に持ってきている酒の椀。
ごそごそと懐に手を入れてその手を童の前に伸ばせば干し柿がしっかりとのせられていた。
「案ずるな。祓い物の柿ではないぞ。」
保憲の言葉に童の表情は一転嬉しそうに変わり小さな手を伸ばして干し柿を受け取ると
はくり・・・
干し柿に齧り付いた童を見ながら保憲は酒を口に含み満足そうに唇の端をあげた。
「今宵は如何でございましたか?」
幼童は干し柿を咀嚼した後で保憲を見上げる。
「おうっ!晴明の言うた通りよ。間違いなく出たぞ。」
童の瞳が一段と煌めき保憲を見上げてきた。
言葉にせずとも先を促し早く話せと伝えてくるその視線に保憲は
ことり・・・
椀を置くと静かに話し始めた。
「今宵は思わぬ付与もついた。」

保憲が晴明のその能力に気が付いたのは何時の頃であったか。
賀茂の屋敷にやって来たのはまだ保憲が冠を被る前であったことだけは確かである。
修行の為に集っている中にもこれほど幼い童は居なかった。
為に晴明はあまり口を開かず役目上関わっていた保憲に必要最低限の事を告げるくらいであったのだが・・・
或る日の事である。
保憲が何気なく覗いた晴明の室の奥で何やら広げて楽しそうな表情を浮かべている晴明を認めたのである。
これが始まりであったと保憲は思い返す。
何をしているのかと尋ねる保憲に晴明が見せたのは大内裏を中心とした絵図であった。
「都の絵が楽しいか?」
問うた保憲を見上げて声明はその小さな指で一点を指示した。
「ここがどうした?」
指示されたところを見ても取り立てて何もない辻であった。
「宵待月に出ます。」
晴明は子供らしい声でポツリと応えた。
「出る?」
「はい。」
「何が出るのだ?」
保憲の問いに
「何やら妖物が出てきます。」
事も無げに晴明が応えたのを戯言ではないかと保憲は訝しく思いながらも無駄足覚悟でその夜に辻へと一人で向かってみたのであった。
童の戯言でも妄想でもなく辻を割って妖物は現れ、保憲は瞬時に滅して戻ってきたのである。
それ以後、保憲は、これは賀茂の力を見せつける良い機会ではないかと考えを巡らせ晴明の言を聞くようにしたのである。
そして妖物退治に出かける時には賀茂家にいる弟子たちを同道させ派手に事を起こすようにしたのであった。
そして今宵の事である。

「今宵は四人で出かけたのだよ。」
くいっと椀の中の酒を一口含んだ後に保憲は穏やかに口を開いた。


夜の闇の中に地が動く気配がする。
「宜しゅうございますか。」甲高い声が囁くように保憲に問うた。
「まだだ。暫し待て。」
保憲の声に他の三人は顎を引くと辻を見つめる。
もろもろもろ・・・・
重なり合った夜の闇の中を辻の地を割って出てくる気配は次第に大きくなってきていた。
ビチャッ
湿り気を帯びた音が聞こえ地を割って出てこようとしていた物の姿が月の光を受けて青白く浮かんでいる。
そろそろだ・・・保憲が声を掛けようとした瞬間
ぎしりぎしり ギシッ
背後の道を近づいてくる車の軋る音が耳に入った。
「今ぞ!」
保憲は声を発し四人の指先から倒魔の札が舞いあがった。
ぐぅ!!
不気味な呻き声と共に地から出てきたものはブシュブシュと溶け出し・・・消えた。
後には燃え滓のような黒い塊
さぁっと風がそれさえも祓っていった。

モゥゥゥウ

暢気な牛の声があたりに響く。
保憲はその啼き声の方へ踵を返すと走り寄り車の横に膝をついた。
「大納言様。」
保憲は頭を垂れて伏した。
「賀茂忠行が嫡男 保憲にございます。
お出かけの道先を汚しましたる妖物は滅しましてございます。
心安らかにお進みくださいませ。」
保憲の言上に御簾の中の影が頷いたように見えた。
ぎしり ギシッ
車はゆっくりと動き出し辻を越えて行った。

「・・・っと こんなところであったなぁ。」
語り終えたとばかりに保憲は椀を手に取って酒を含んだ。
「・・・・・」
何の応えも無いのに保憲は訝し気に視線を晴明にむける。

はくり
もぐもぐ
はくり

保憲の物問いた気な視線をものともせず童の干し柿を咀嚼する音だけが聞こえる。
「晴明?」
もぐもぐ
はくり
「不満か?」
保憲は晴明の顔を覗き込んだ。
「保憲様。」
「おっおぅ!何が知りたい?」
軽い衣擦れの音と共に晴明が一膝乗り出して保憲をじっと見上げる。
「その地から出てきたものは大きゅうございましたか?」
問いかけてきた瞳が煌めくのを見て保憲はふっと微笑んだ。
「それが・・・よく解らないのだ。」
保憲は頬を指先で掻きながら応える。
「何故でございます。保憲様は見たのでございましょう。」
ズイッ
衣擦れがして晴明の顔が少し近づく。
「その・・何だ。大納言様がいらしたのでな。」
「手早く滅してしまったと。」
「そう言う事だ。」
こういう時の保憲は或る意味潔い。
取り繕う事も無く否しもせずに応えるのが常であった。
悪戯を思いついたような笑みを浮かべて晴明は立ち上がり保憲に向かって足を進めた。
「あっ!」
小さく声をあげて晴明の身体がゆらりと傾き、まろびそうになったのを保憲の両の手が賺さず支えて胡座を組んだ己の足の中に抱え込む。
「晴明。おまえは足弱なのだから気をつけよといつも言っているであろう。」
保憲は愛しそうに晴明の髪を梳きながら耳元で声をかけた。
不満気に頬を幾分赤らめながら晴明は保憲の胸に顔を寄せて声をあげて笑う。

「すまんな。晴明。」
保憲は胸の内で独り言ちた。

俺は賀茂の家を盛り立てて行かねばならぬ。
この先どのような事があろうとも賀茂家で都を護る。
その為にも賀茂の力を示して都の中に確固たる位置を示さねばならぬのだ。
晴明の持っている力を利用しているようで気が引けるのだが、お前を粗雑には扱わぬ。

「だから・・・許せよ。」
保憲の声に訝しげな表情で晴明は見上げてくる。
「保憲様?何かいけない事でもなさったのですか?」
晴明の問いかけに保憲は狼狽えながらも穏やかに応えた。
「いや。せっかく出てきた妖物を確かめずもせずに滅してしまった。」
保憲の応えに晴明は朗らかに笑うと次はよく見てきてほしいと強請った。
「あぁ・・そのようにしよう。」
保憲がホッと応えれば朗らかな笑い声が晴明の口から零れ出た。


この笑い声を守る為にも賀茂は大きくなられねばならぬ。強くなければならぬ。
今しばらく晴明、おまえの持つその力を貸してくれ。
保憲は声に出さずそっと晴明を抱き寄せた。
擽ったそうに晴明がくつくつと笑う。


トクトク・・・・
晴明は保憲の胸の音を聞いていた。

何と心地良い
この穏やかな心の蔵の音を聞いていると心が安らぐ
賀茂の家に預けられても足の弱い自分には何も出来ぬと思い肩身も狭く落ち着かぬ毎日を過ごしていた。
いっそ賀茂の家を出て出家でもした方が良かったのかも知れぬが仏を崇める心も無い。
己が一つだけ持ったらしい能力が保憲の喜ぶものなら何よりだ。

今こうして穏やかな心持でいられる瞬間があると言うだけで晴明は満足であった。

保憲が晴明の頬を撫でて声高に笑い声をあげた。

あぁ!良い笑い声でです。保憲様

晴明は保憲の顔を見上げて明るい笑い声を立てた。

あぁ!好もしい笑い声ぞ。晴明


厨の宴は続いているようで若者たちの賑やかな声が遠く聞こえてくる。
賀茂家の夜は穏やかに更けて行く。


                            完


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