都に春の風が吹き渡る。
あちこちで桜の花が咲きそろい始めていた。
近頃 都の人々の口に上る噂が保憲のことである。
正確には保憲の隣に寄り添うように付き従う年若き男の事であった。
保憲は賀茂家の正当な跡継ぎである。
殿上人の間でも名は知れ渡っている。
しかし・・その保憲がいつもつれて歩いている若者の名は誰も知らなかった。

「おい。」保憲が若者にそっと声を掛ける。
顔は前を向いたまま・・早足で進む保憲は振り返る人々を気にする様子も無い。
「なんだ?」
声を掛けられた若者も前を向いたまま答える。
「また・・見ておるぞ。」笑いを含んだ声が返ってくる。
「あぁ 保憲 何故あぁも皆は我等を見るのだ。」
若者は心底不思議そうであった。
「馬鹿・・・」唇の動きだけで保憲は言い返す。

何しろ・・この若者は尊き姫君でも逃げ出しそうな美貌なのである。
抜けるように白い肌と桜色の形の良い唇 これだけでも人の目を引くのに充分であるのだがその切れ長の目の奥に輝く瞳の艶かしさは性別を超えて興味を持たれても仕方が無い事かも知れない。
その若者にピッタリと寄り添うように健康そうな肌の色をした保憲が居る為その白い肌が余計に際立つ・・。
声を掛けようと思う者も居るのだが保憲がいつも隣にいる。
下手なことをして万が一陰陽師の力を必要としたときに無碍に扱われても困る。
保憲より遥かに位の高い者でも頭の隅には賀茂家の存在があった。



その日 忠行は信太の里神を訪ねていた。
どうしても確かめておきたいことがあったのだ。
留守の事は保憲に任せてきた。
信太の里にも春の風が心地よいほどに吹き渡っていた。
何処からとも無く桜の花びらが舞う・・


賀茂の屋敷では保憲が急の参内の仕度に追われていた。
間の悪い時と言うのはあるものなのだ。
本来ならこれは忠行の役目であったのだが・・・
「良いか?蛍 程なく戻れると思うので案じる事はないぞ。」
不安げに見上げる蛍に向かって保憲が優しく声を掛ける。
「あぁ 早く終わると良いな。」蛍が小さく答えた。
門を出たところで思い出したように振り返る保憲。
「それから・・・」と蛍を正面から見据えた。
「俺が戻るまでは決してそなたの技を使うでないぞ。いいな。」
「解った。約束する。 だから早く戻れ保憲。」
ん・・・っと肯くと保憲は都大路を北へと向かった。

春独特の薄水色の空が美しい。
何処からとも無く桜の花びらが舞い飛んでくる。
賀茂の屋敷の南側にある桜の木々から散っている桜なのだろうか・・
・・・なんと美しく舞うものなのだなぁ・・・・
蛍は舞い飛ぶ桜を追いかけた。
振り向けば賀茂の屋敷はすぐそこに見える。
まだ大丈夫・・・蛍は桜の木に向かって走り出した。
穏やかな風に乗って桜の花びらは蛍の手に届くようで届かない。
はらはらと舞い落ちる桜を追って桜の古木の根元まで来てしまった。
薄水色の空さえ覆い隠すほどの見事な枝振りで雪を欺くかのように満開の桜が咲いている。
・・・・こんなに散っているのに桜はまだ満開のまま・・まるで湧き出してくるようだ。・・・・
蛍は根元に腰を下ろすと桜を見上げていた。その肩にも髪にも桜が降り注ぐ。
瞳の端に賀茂の屋敷の屋根が映っている・・・そんなに遠くまで来た訳ではない。

「ん・・・?」
何やら違和感を感じて蛍は自分の足に視線を落とす。
「ワッ!!」思わず払い除けながら立ち上がる。
ズルッとした抵抗があって足について来たのは赤黒い色の四本指をつけた腕であった。
「物の怪か?」っと蛍が凝視する腕にはまだ何かが続いている・・・

・・・肉 肉の匂いだ・・・
地面が盛り上がり腕に続くものが姿を現した。
何処が顔なのか良く解らない赤黒い体・・
血走ったような二つの目が蛍を捕らえていた。
・・・良い肉だ・・
「何だこいつ・・」蛍は気持ち悪そうに見返した。
地から湧き出した赤黒い体は蛍の足を掴んだままじっとこちらを見ている。
顔らしき場所に赤いものがペロッと見えて消える。
どうやらそのあたりが口らしい。赤く見えたのは舌なのか。
・・・おぅ これは旨そうな肉だな・・・
地下から響くような声と共にあちこちで土が盛り上がってくる。
蛍が視線を巡らせば桜の古木の周りに数え切れないほどの物の怪の姿・・
「面倒な。」
蛍は左でそっと印を結んだ。辺りを績めていた物の怪たちがズッと後ろへと身を退いた。
その時蛍の脳裏に保憲の残した言葉が蘇った。
・・・俺が戻るまで技を使うな・・・
そうだった 確かに約束したなぁ。
蛍は静かに印を解く。
印を感じて後ずさっていた物の怪たちは口々に話し出した。
「何だ カッコだけか。」「それなら早い所喰らうのが一番。
「そうだな 喰らうか。」「喰らうぞ。」

物の怪たちが蛍に飛び掛るより一瞬早く蛍は走り出した。
視線の先には賀茂の屋敷・・・
逃すか・・・
物の怪たちが次々に飛び掛ってくる。

・・・保憲・・・保憲・・・まだか保憲・・・
蛍は意識を賀茂の屋敷に集中して呟く。

蛍は決して走る事が苦手ではなかったが今回は相手が悪い。
地の下を通り抜けてくる物の怪たちは蛍の前に回りこんでくる。
・・・・保憲・・助けてくれ・・保憲・・・

囲まれた・・蛍の足が止まる。

・・・保憲・・・

一斉に物の怪たちが蛍に飛び掛ってきて蛍の身は地面に叩きつけられた。
・・・保憲・・・
次から次から我が身にに纏わり付く物の怪を感じて蛍は思わず目を閉じた。

・・・保憲・・・

その時蛍は自分の身の内側で重い扉が音を立てて閉じられるのを感じたのであった。
ゴトン・・重々しいその音と共に何かが遮断された。

ふっと蛍が笑みを浮かべたと同時に全身を覆っていた物の怪たちは弾き飛んだ。
「邪魔だ! 除け!。」
立ち上がった蛍は物の怪たちを睨みつける。
「疾く去ぬか! 去ぬのなら・・」
再び物の怪たちの姿が宙を舞う。
中には地面に叩きつけられて潰され形を成せなくなった物もある。
冷たい笑みを浮かべている蛍の身に桜の花びらが舞い落ちていた。



「ほう~これは稀有な魂の持ち主がいた事よ。」
南の木の陰に男が一人立っていた。
「なんだ そなたは・・物の怪と同類か。」
「いいや・・。」
気が付くと男の顔は蛍のすぐ傍にある。
思わず後ずさった蛍の背中に桜の古木が触れた。

「俺は肉は喰らわぬ。」
男はにっと笑って一歩蛍と距離を詰めてくる。
先程まであれ程いた物の怪たちは消えていた。

「ならば・・そなたは何だ。」
「さぁなぁ。」
男は人差し指と中指で蛍の顎を上に向けた。

「真に稀有な魂・・これなら喰らいたいな。」
「な・・何を馬鹿なこと。」
このようにまだ空も青いのに物の怪やら妖しやら・・と蛍は思う。
「知らぬのか?今時分の事をたそがれ時と呼ぶのよ。
人ならぬ物が一番出やすい刻・・」
男の頬に笑みが浮かぶ。
「そう言う訳だからここの所は退散したほうがよいと思うのだが・・な。」
「私を喰らうのではなかったのか?。」
「喰らわぬよ。今は・・・な。」
男は唇に僅かばかりの笑みを刻んで蛍の顎に掛けていた指を離した。


それよりも少し前
信太の里神と忠行は微かな気の変化を感じていた。
「閉ざしたか。」
里神が言う。
「忠行 己の意思で閉ざされた物を我が無理やり開くことは良い方向へは進まぬ。」
「はい。」
桜の花びらが舞い散っている。
・・・この花びらは何処まで飛んでいくのだろうか・・・
忠行は里神に別れを告げ屋敷への帰路についた。
空には季節を欺くように満開の桜から途切れることも無く花びらが舞いあがり何処ともなく飛んでいく。

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