「此度はどの様なお戯れをなさりましたのか?」

頭上が降り落ちた声に思わず首を竦めて信長は声の主を見上げた。
面長で透けるように白い肌の若者が唇を僅かに上げて見下ろしている。

「か・・・影朗。何を申すか。」
狼狽えながらも視線を返して応えた。
「お髪が湿っておりまする。」
影朗と呼ばれた若者の応えに信長は思わず髷へと指を伸ばせば確かに濡れているのが解る。
「いや。村の者達がな。沼に妖しげな生き物が出ると言うので確かめに行っただけよ。民草の不安を除くのも俺の役目であろう。」
ふふ・・・若者の口元から笑う声が飛び出た。
「それで衣を脱がれて下帯一つで沼に入られた?」
「あぁ その通りだ。この目で確かめなければ何とも言えぬでは無いか。」
信長はここで形勢逆転を狙ったのか大きく胸を張った。
「宜しいですか。信長様。」
若者の白い指が信長の眼の前に突き立てられた。
「確かにそうでは有りましょうが、御身に万が一の事がありましたら民草はその日から迷わねばなりませぬ。」
若者の言葉に控えていた近臣の者達は小さく首を縦に振って頷いている。
「うむ。 以後気をつける事にする。」
張っていた胸を縮めて信長はボソッと言った。

それにしても・・・と近臣の者達は首を傾げる。
そもそも城の主の頭頂を見下ろして物を言う事などありえない事。
それを諌めもせず大人しく話を聞いて言い負かされている主の姿など滅多に見られる光景ではない。

そのような近臣の思い等知ってか知らずか信長は照れたように髷の横を掻いていた。

「おい!」
信長の声に近臣は我に返った。
「なにか甘いものでも持ってまいれ。身体を動かした後は欲しくなるのだ。」
信長は下戸である。 酒の代わりに甘いものを好む。
近臣が足早に去って行くのを見ながら信長は目を細めて笑みを浮かべた。


「それでな。」
ぱくりと糯を頬張りながら信長が事の次第を話し始める。
「はい。」
指先で糯を千切りながら若者が微笑しながら先を促した。


領地の外れに有る村に大きな沼が有った。
この沼に何やら巨大な生き物が住んでいると村人達の間では噂になっていた。
特に悪さをするでも無いが見たこともない生き物と言うのは不気味である。
村人達の心の中に不安の芽が出てやがて大樹に育って誰も沼には近寄らなくなった。
こうなると辺りは荒れてくる。
我の領内で不届きな振る舞いとばかりに信長はこの沼に出かけたのであった。
本当にそのような生き物が住んでいるのならば退治をしないといけない。・・・と言うよりは見たことも無いと言う所に信長は惹かれたのである。
ぜひに見たい!
信長は家臣や村人達に水を掻き出させ浅くなった沼へと入ることにしたのだ。
衣を脱ぎ 袴を脱ぎ・・・下帯一つの裸体に口に小刀を咥え沼へと入って行くと底へ向かって潜り始めた。
家臣は慌てたが本人は暢気な者。
目新しいものは大好物である。 ここで出会えばさぞかし楽しいであろうと胸躍らせて沼の中を泳ぎまわった。


「それで?その生き物は捕らえられたのですか?」
若者が上目がちに尋ねてきた。
「いや・・見つける事は出来なかった。影さえ見えずにな。残念なことよ。」
信長がいかにも惜しい事をしたという風に声を出すのに若者は笑みを刻んだ。
「見たことも無い生き物の一つくらいこの世に有っても良いのではありませぬか。」
「いや!俺が思うにそのような生き物は居ないのだ。」
「何故にそのように考えまするか。」
糯を千切っていた若者の指が止まって視線が上げられた。
「あれだけ探して見つからぬのだ。いないと考えるべきではないのか?」
「どこぞに隠れているのやも知れませぬ。自然に出来たものには思わぬ所に洞があったり致します。」
「そう・・・であるか。」
穏やかな若者の声を聞きながら信長は桶狭間での戦を思い出した。

・・・・ 常はこの様に穏やかな物言いであるに ・・・・


「のぶながぁ~!」
あまりに厳しい声に信長は思わず声の主を見返った。
抜けるように白い肌の持ち主が眦を決したように己を見詰めていた。
厳しい声は花のように艶めく唇から発せられたものであった。
「お・・おまえ」
「早ぅ切り取り無用の下知を出せと申しておろうが。このうつけ!」
艶やかな唇は容赦がない。

僅かな手勢で桶狭間山の今川を攻めようと今まさに出陣の時である。
敵方の武将の首の数はそのまま恩賞に繋がるのが常であった。
それをこのたおやかな若者は無用だと知らし召せと言っている。
「良いか。信長。」
若者の細い指が信長の眼の前に突きつけられる。
「有象無象を切り捨てていたらこの戦は負ける。大将の首さえ取ればこの戦はすぐに終わるのだ。それも解らぬ主ではあるまい?」
にぃ・・・艶やかな唇が弧を描いて皓歯が覗く。
「あぁ確かにな。影朗・・お前の言う通りであるな。」
多少狼狽えた感はあった物の信長は意を決したように家臣が控えている間へと歩を進めた。

「出陣致す。此度の戦、切り取り無用の事とする。目指すは今川の首一つ。」
凛とした声が響き渡り応える声が唱和するように重なる。
「こちらは新手ぞ!臆するな!」
信長が指し示す先には桶狭間山。
手にした剣の刃にポツリ・・・・天からの滴が落ちた。


「何を考えておられます?」
穏やかな声に信長は我に返った。
「いや 昔のことよ。主は鬼神のようであった。」
片頬に笑みを刻んで信長は影朗の顔を見返した。
「このように穏やかな物言いを常はするのにのぅ。」
信長が合点が行かぬと言いたげな表情を浮かべる。
ふふ・・・影朗と呼ばれた若者は僅かに声を上げて微笑んだ。
「珍しゅうございますね。信長様が過ぎし日の事を思い返すなど・・・」
若者はスッと立ち上がり信長との距離をとって後ずさる。
「どうした?何か不満であるか?」
信長は上目遣いになって若者を見上げた。
「まだまだ為さる事はございましょうに・・・」
目を細めて若者は「面白ぅ無い。」と誰に言うでも無くつぶやいた。
「良いか。信長・・吉法師・・我の言うたこと。しかと心に留めておるのだろうな。」

この言葉を最後に影朗と呼ばれた若者は信長の前から姿を消した。





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