「何故そのような所に居る。遠慮無ぅ入られよ。」

金襴豪華な衣装を纏った男は上機嫌で御簾の外、庇で平伏している影に向かって声をかけた。
影の主は応えるでもなく姿勢を正して微動だにしない。
「ほんに・・・」
声をかけた男は鷹揚に首を傾けながら扇で口元を隠して息を吐いた。
「そこでは話もできぬ。酒の仕度もさせてある。もそっと近ぅに来てくれぬか。」
男は再度影に声をかけた。

影は今一度の礼をとると静かに御簾の片隅から音も無く男のいる奥へと歩を進めてきた。
御簾を超えても幾重に几帳が置かれその奥には御簾が懸かり声をかけた男はその向こう側だ。
確かに庇とでは話が遠い。
「まろは・・・いや俺はな。晴明殿。」
男は尚更に高貴を意識して無い風を装うか親しげに呼びかけた。
晴明と呼ばわれた男の髪は銀の糸のように白くかなりの高齢である事は判るが強い瞳の光は青年の頃と変わりない強さを秘めていた。

「今日は心持が良いのだ。身も軽く感じる。今宵の月の光に包まれているようだ。」
男は言うと視線を外から目の前で平伏している男に流した。
「それは左府の望みのままに事が進まれているからでございましょう。」
頭をあげる事も無く高齢の男は静かに応えた。
「そなたの力添えがあってこそじゃて。 ほんに頼りになる男ぞ。」
「私は表向きの事からは身を引いて久しゅうございます。全ては息子に任せております。」
「ほんに・・・」
左府と呼ばれた男は扇の陰でそっと息を吐いた。
「年を数えてまさに古狸よの。」
笑みを刻んだまま男は言った。
「いえ・・・この私は狸ではございませぬ。」 晴明の声にも笑みが感じられる。
「それよ。 父の兼家から良く聞かされたわ。」
「化け狐のようであったと・・・」 間髪入れずに答が返る。
わっはっはっは・・・・
とうとう左府と言われた男は声を上げて笑い出した。

「それはそれは美しいしなやかな狐であったと言っておったわ。」
「遠い昔のことでございますよ。今ではこのように老いさらばえて隠居の身でございます。」
「年下であった兼家は良く諌められたと申しておった。」
「そのような事もございましたでしょうか。」
覚えておらぬとでも言いたげな表情で己を見返してくる晴明を見てやはり狸だと左府である道長は思った。
「表の事をやらぬで良い身になったが幸いよ。これからは誰に気兼ね無くこの道長の為だけに力を使うてたもれ。」
言いながら道長はすいっと酒や肴を奨めてくる。
それらを運んできた女房姿の者たちは僅かな衣擦れの音だけを残して去っていった。
酌をする物の姿も消えた。珍しいことである。
「注いでくれぬか。」 道長が杯を手にして視線を向けた。
「これは気がつきませなんだ。不調法をいたしました。」
晴明は瓶子を細い指でつまむように持ち上げるともう一つの掌で支えるように道長の杯へと傾けた。
「晴明・・・杯を。」
言うと道長はその瓶子を奪うようにとると晴明に傾ける。
「もったいのうございまする。」
晴明が両の手で受けるのを見て道長は今日何度目かの息を吐いた。
「今宵は話がしたいのだ。せっかくの快い心持を悪ぅさせないでほしいものだ。判らぬか。」
「ですが・・・この爺では面白うございませんのでは?見目の良い姫君でもお傍に侍らせ給え。」
「いや晴明 そなたでなければ駄目なのだ。」
道長は晴明の指を掴んだ。
「お戯れをなさいますな。 爺にこのような事を申せば左府の評判にも障ります。」
言われて道長は己の右手がしっかりと晴明の指を掴み左手は肩にかかっている事に気づいて狼狽した。
「いや・・・つまりな晴明。 今まで誰にも話した事は無かったのだが・・・是非に聞いてほしい話があるのだ。」
我に返ったかのように晴明との距離を置き何事も無かったかのように杯に口をつけて道長は空に輝く月を見上げた。
ふふ・・・袂で口元を隠して晴明が僅かに笑った。
「お聞きいたしましょう。左府。 あなた様の為になるのでございましたら・・何時かかろうとも・・・」
「おれがまだ兼家から数にも入れてもらえなかった頃の話よ。」
道長は言うと杯の中の酒を飲み干した。



カッカッカ・・・
道長は馬に乗って駆けていた。
朝廷の中枢にあって権力闘争に明け暮れている父 兼家はずっと機嫌が悪い。
父が兄弟との仲が悪いのは貴族の間では知らぬものは無く兼家が何やら画策して権力を手中に収めようとしているらしい気配を道長は感じていた。
そうは言っても五男である道長はその中には入れては貰えず何かが起きようとしている事は判ってもそれが何なのかは判る術も無い。
15歳で五位下に任じられ貴族の端に列なったものの藤家としては卑官である。

今日も兼家は道長の兄を呼んで何やら秘めた話をしているようであったが道長に声がかかることは無かった。
どうせ数の外であるならば・・・むしゃくしゃとする気持ちを胸に押さえ込めず愛馬に跨り心の向くままに駆けさていたのである。

どこまで来たのか・・・道長は馬の足を止めさせて辺りを見回した。
女竹が一面に広がり見上げた空には薄雲に隠れるように月が出ていて辺りを青白く照らしていた。
近くで水の流れる音がする。
「ふむ・・・桂まで来てしまったか。」
道長は誰に言うでもなく呟いた。
朝まで戻らなくとも誰に文句も言われる訳でもない一人身である。
馬を傍らの竹に繋ぐと僅かに見える地を踏みしめながら河原へと足を運び
ごろり・・・
小石を枕にと横になり空を見上げて過ごす事暫し。
何やら光るものが目の端に映っていることに気がついた。
月明かりの他は灯火一つ無い闇である。
道長は訝しく思いながら身体を起こすと光の方へと視線を向けた。
ぼぅと灯る光の中に振り分け髪の童が一人佇んでいる。
・・・ この様な時刻に一人でいるとは・・どこぞの家のものであろうか ・・・
己も一人である事はさて置いて道長は童に近づいた。
「そなたは何処の家の者か。この様な時刻に一人歩きは危ないぞ。」
声をかければ童はふっと笑みを刻みながら道長へ視線を向けた。
「あなた様もお一人でございましょう。危のうございますよ。」
年に似合わぬ大人びた口調で童は道長に答えた。
その表情の美しさと全身を覆う光に道長は一歩後ずさった。
「もしかして・・・妖物か。」 無意識に言葉が出た。
「だとしたらいかがなさいます?」
揶揄するように童が言う。
「捕らえて衛府に土産にするさ。」
言いながら道長は童の腕を掴もうと手を伸ばした。
「捕らえられますかな。」
童は言いながら素早い身のこなしで身を翻し音も立てずに竹林の中へと走る。
「待て!逃すまいぞ。」 道長が後を追う。

あははは そのような足では捉りませぬ

朗らかな声が闇の中から聞こえる。
道長は声を頼りに竹林に中を走り回った。
見えぬかと思えば遠くの女竹の向こうにぼう・・・と何かが光る。
「そこか!」 道長が走り寄ればそこは真の闇

あははは・・・

声と共に背後がぼう・・・・と光る。

どれほどの時が過ぎたであろうか。
気がつけば頭上にあった月は傾き始めていた。
上がった息を整えているとそっと暖か物が己の指先を掴んでいる事に道長は気がついた。
「お気が晴れましたでしょうか。」
目の前に童が立ち道長の指を捉えたまま耳元で囁く。
柔らかな感触に道長は繁々と童を見つめた。
「妖物では無いのだな。」
「確かめてご覧になったのでは?」
童は道長の目の前で掌を振って見せた。

「何やら不穏な気があなた様のお身体を覆っておりましたのでつい余計なことを致しました。」
相変わらず大人びた口調で童が言った。
「不穏な気?」 道長は首を傾げた。
「もうございませんでしょう?」
言われて気がつけばあれほどむしゃくしゃしていた気持ちは何処にも無く何やら楽しい気分にさえなっている。
「道長様。」 突然童は名を呼んだ。
「あなた様には強い運がございます。今はどうであれ諦めなさいますな。」
「そなたは俺の名を知って居るのだな。」
道長の問いに童は笑みを持って応えた。
「ならば そなたの名はなんと言う。」
「白身でございますゆえ名は名乗りませぬ。」
童はすっと身を引いて道長との距離を置いた。
「お忘れくださいますな。あなた様は必ずやこの都を動かすことになりましょう。御身を大切になさいませ。」
言うと童の姿は道長の目の前から次第に朧となって消え去った。


ふぅ・・・・
語り疲れたのか道長は脇息に身体を預けて息を吐いた。
「杯が乾いております。」
晴明は瓶子を取り上げてつ・・っと注いだ。
「すまぬ。」
道長は受けながらじっと晴明を見返した。
「のう・・晴明。あの頃のそなたは幾つであった?」
「何をおっしゃいます。歳も判らぬほどの爺になっておりました。」
「そうよの。この俺が生まれたときには初老を過ぎていたであろう?」
「その様でございますな。」
「だがな・・・」
道長は言葉をとめた。
「あの童に出会うた時には知らなんだが後に兼家からそなたの若い頃の話を聞いてな。ちと思い返してみたのよ。」
道長は舐めるように杯の酒を口に含み晴明を見た。
「輝くような美しさだったそうではないか。」
「何のお話でございます?」
晴明が口元を袂で隠して道長を見返した。
「ほんに・・・狸よの。」
「狐の間違えでは・・」
二人の視線が絡み合った。
「まぁ良いわ。あれはどこぞの神であったと言う事にしておこう。」
「神でございますか。」
晴明の頬に苦い笑いが浮かんだ。
「あぁ 神だ。このおれの・・・まろだけの神だ。左大臣藤原道長のな。」

「良い月でございますな。」
道長の言葉に答える風も無く視線を天空へと流して晴明が言う。
「真 良い月ぞ。」

さわさわ さわ

風が出てきたのか庭の草花が揺れる音がする。

「左府 私はこれにて下がらせて頂きます。年寄りに夜風はよくありませぬよし。」
深々と礼をとると道長が引き止める間も与えず御簾の外へと去っていく・・・
そんな晴明を目だけで追いながら道長は独り言ちた。
「やはり狸だな。いや まろだけの神であったわ。」
ふふっと声を漏らして手にしていた杯の中の酒を飲み干した。

ふ・・・
晴明の口角が僅かに上がった事を道長は知らない。
・・・・ あなた様までですよ ・・・・・
晴明は月に視線を流して一人呟いた。


「この世をば 我が世とぞ思う望月の・・・」

あまりに有名なこの歌を道長が詠んだのは晴明がこの世を去って二年後の事であった。
ここを頂点として藤原家は坂を転げ落ちて行くこととなる。





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