・・・・・・ ほぉぅ ・・・・・・・

心地良く頬に触れる風を遮るように深い息が吐き出された。
空を見上げる瞳の奥に戸惑いと哀しみの色が覗く。
「皇子様。 いかがなされました?」
息の音を聞いたか河勝は年若の皇子へと声をかけた。
「いや・・・ どうと言うことも無いのだが ・・・」
皇子はゆるゆると首を振ると河勝の方へと身体を向けた。
「おまり思い煩いますな。 御身に障ります。」
慈しむような声に皇子の頬にも僅かばかりの苦笑が浮かんだ。
「解っている。解っているのだが・・・」
「皇子様」
「まだ未熟と言うことよの。」
皇子はもう一度息を吐くと河勝の傍らに腰を下ろした。
辺りは名も知れぬ草花が咲き乱れ通り過ぎる風が揺らしている。

「のう・・・・河勝。」
「はい。」
躊躇うように名を呼ばれて河勝は視線を皇子へと向けた。
「人と言うものは何故に己ばかりを愛うのであろうな。」
ぽつり・・・特に返事を期待したのでもないのだろうか。言葉が立ち消えた。

ツィ・・・と白い鳥が空を舞う。
浮かぶ雲と見紛う程の白い翼は優雅に振られやがて真直ぐに皇子の下へと飛び来たって肩に留まった。

「何やら皇子はこのところ憂いの気が強ぅございますね。」
嘴から紡がれたかに見えたが気がつけば玉響が二人の傍らに立っていた。
通常であればこのような場所で皇子と肩を並べて腰を下ろすことなど出来るはずもない。
この皇子はあまり頓着しない性格のようである。
穏やかな笑みを浮かべて見下ろしてくる視線を皇子と河勝は自然見上げていた。


・・・・・ 隋の国へ国書を出すときにも皇子は決して臆しては居なかった。 
何よりこの国の発展・成長を強く望んでいるのは河勝に手をとるように解っていた。
それでも・・・・河勝は国書の内容に戸惑いを覚え訂正を進言したのだが ・・・・・
「今の情勢をしっかりと見据えれば悪きことにはなりませぬ。」
玉響はにっこりと笑って言ったものである。
皇子も倣って莞爾として笑みを浮かべていた。
・・・・・ なのに この所の憂いの色が濃いのは ・・・・ 河勝は皇子の表情を窺った。

「妃の具合が良くないのだ。」 皇子はぽつりと言った。
「膳大娘様の事でございますか?」 玉響がすっと腰を下げて皇子の顔を覗き込む。
河勝はこの所の皇子の表情が優れない理由が理解できたと一人頷いた。
膳大娘妃は数いる妃達の中で一番皇子に寵愛されている。
多妻の時代ではあったが相性と言うのはあるもので皇子は何かにつけてこの大娘妃と過ごしていた。
「色々と薬草を使っては見たのだが・・・あまり・・・良くはならぬ。」 苦しそうに皇子の眉が顰められる。
「ならば尚の事 皇子様がお気持ちを強くお持ちにならねば・・・」 河勝は励ますように声をかけた。
「確かに・・私が強くなければとは思っておるよ。河勝。」 笑みを刻んだ皇子の顔に力が無い。
「私も良い薬草を宮の者に尋ねて参りましょう。御気を強くお持ち下さいますように。」
言うと河勝はすっくと立ち上がりその場を離れて行った。
「それでは私もこれで・・・」 玉響は白い鳥を伴ってその場から去ろうと皇子に背を向けた。
「玉響殿。」 小さく皇子が呟いた。
「なにか?」 振り返った玉響の目に映ったのは得ようの瞳に涙を浮かべた皇子の姿である。
「私は・・・妃と共に逝きたい。 許されぬ事であろうか。」 躊躇する気持ちの表れか声が時々途切れた。
「それは・・・・」 玉響はそっと手を皇子の肩に乗せた。
「あなた様のお心次第と私は思います。 皇子が決められた事を誰に止める事が出来ましょう。」
「仏の・・・仏の御許に妃と共に有りたいと願うのは私の我侭では無いと言ってくれるか?」
ふっと玉響の表情が弛んだ。
「私が言ったとて何の足しにもなりませぬ。 全てはあなた様のお心のままです。」
「そうか・・・私の心のままなのだな。」
「仏は人の心の中にあると聞き及んでおります。もっとも・・・この私は仏の教えを学んだ訳では有りませぬが。」

「玉響殿 感謝する。 あなたが傍らにいてくれた事で随分と楽しい世になったと私は思っています。」
「皇子様。 思いが繋がればまた何時の世でも出会う事はできましょう。私は何時の世も私のままです。」 
「何と心強い事よ。妃にもぜひ聞かせたいもの。」 
皇子は眉間を開いて笑った。
「久方ぶりに空を見たような気がする。 心持も軽くなった。」
皇子は軽く頭を垂れると妃の元へと去って行った。
・・・・・ これまでか ・・・・・ 玉響の声は誰に聞かれる事も無く風の流れていく。


妃と皇子が同時にこの世を去った事実は人々にあっと言う間に伝わり手厚い葬儀が行われる事となった。
我が国として初めての仏式であったと言う。
人々が悲しみにくれる中 河勝は玉響に言われたままに皇子の像を己の所縁の地に建てた寺に祀った。
皇子の名は里の民から口伝えに広まりやがて誰もが知る聖人として伝播して行き数多くの寺や堂宇が建てられる事となる。

時は流れ河勝もこの世のものでは無くなり大王の住む宮は移り変わって行った。
大王は帝と呼ばれかつて河勝の所縁であった土地へと都は置かれ幾星霜・・・
皇室は貧困を極めていた。
そのなかで清廉で純粋に政を憂う帝が誕生したのである。
あまりの貧困で紫宸殿での即位の儀式もままならぬ程の困窮振りであった。
それでも帝は任官の為の賄賂は決して受け取る事は無く只ひたすらに民を思いこの国を憂いた。
この帝が何故か遠い昔にこの世を去った筈の斑鳩の皇子に思いを馳せたのである。
即位の時に着た黄櫨染の衣を河勝所縁の寺に祀られている皇子の像に届け着せたと言う。
共に純粋にこの国を統べる者として心を寄せたのかも知れぬ。
以後 今日までこの儀式は耐える事無く行われ科学万能と言われる今日でもこの儀式は為されているのである。

斑鳩の皇子はこの事を何処かで見ているのであろうか
河勝は知っているのだろうか
そして玉響は何処へ・・・・・

答えは無く 都の上を風が吹き抜けて行くだけである。




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