果てしなく広がる空が濃藍から明るさを増して薄くなっていく朝まだ浅い時刻。
吹き渡る風も爽やかに木々の葉を揺らしていた。
時折見える摘んだような形の雲も白い輝きを纏っている。
そんな風景をじっと見上げている若者が居た。
身に着けている装束から高貴な出自だという事は一目で解る。
英知を感じさせる瞳の奥に僅かに覗く憂いの色さえ彼の知恵の深さを減じる物ではなかった。

「皇子様。」 穏やかな声が若者にかかる。
「河勝か。 今日も善い陽射しの朝であるな。」 若者は視線を傍らで跪く男に向けた。
「はい。 真に気持ちが洗われるような風でございます。」
皇子と呼びかけた若者へと静かに見上げて河勝と呼ばれた男は穏やかに応える。

ヒューイッ
鳥の鳴く声が聞こえる。
青く澄み渡った空に一羽の白い鳥が舞っていた。
皇子が空に向かって右腕を差し出すと白い鳥は迷う事無くその腕に飛び来て羽を休めるように留まる。

「もう 体調は大丈夫なのですか。」
皇子は鳥に語りかけるように小首を傾げた後で振り返ることも無くそっと囁やいた。
「・・はい。 お手を煩わせました。」 
鳥の嘴から・・・では無く背後から低く聞き心地のよい声が返ってくる。
「そうか。それは良かった。」 皇子は嬉しそうに声の主に向かって振り返った。
河勝と呼ばれた男の後方に跪く姿があった。

・・・ 不思議な漢だ ・・・・・河勝はじっとその姿を見下ろす。
河勝がこの国にやってくる前に居た海の向こうの国でも見たことが無い衣を纏っている。
紗に似ているがそれよりも薄く透ける質感がこの者をいっそう儚げに印象付けて居るように思えてならない。
肌の色も明らかにこの国の者たちとは違い透けるように白い・・・瞳の色も時折蒼味がかった輝きを宿すことも有る。
河勝の居た国より遥か北に位置する・・大地さえ凍ると言われる土地の者たちに似ているか ・・・河勝は遠い記憶を掘り起こしてみた。
ここ数日の間 皇子は漆黒の天馬に乗って東国に出かけ姿が見えなかったのである。
皇子が出かけてから間もなくこの漢も見かけなかった ・・・・ それが皇子と共に姿を現したのが昨日の事。
河勝は一人首を傾げて二人を見ていた。

           ★   ★   ★   ★   ★


「チッ!!」
その容貌からは想像もできない下卑た舌打が漏れた。

暗闇の中を漢が歩を進めている。
見上げても星も見えない程に背を伸ばした木々が葉を茂らせていた。

「チッ!!」
漢はもう一度舌打をした。
方向を確かめようにも星の一つも見えないこの状況に気持ちも萎えようと言う物だ。
辺りに気を飛ばしてみても乱反射を繰り返しあらぬ方向へと弾き飛ばされてしまうのは確認済みである。

・・・ このまま死ぬのか ・・・・ 
漢は口に出して驚いたように笑みを浮かべた。
そもそも・・俺は生きているといえるのか。
ならば ・・・・・っと漢は考える。
ここで誰にも知られず朽ちて土に還る事も適わぬかも知れぬ。

漢の目の前に一際歳を経た巨木が枝を広げていた。

・・・・・・ 思考しても答えが出ずならば眠れば良い ・・・・・・
巨木は枝を揺らして囁く。
無駄に歩き回っても良い事はないな・・・漢は誘われるように巨木の根に腰を下ろしてその身を預けた。
ふわぁっと黒髪が幹に寄り添う。
漢の長い睫毛が伏せられ時を待たずに穏やかな寝息が聞こえるようになり人も居ないのにどこからか苦笑が流れたが漢はそれを聞いたかどうかは定かではない。


「こんな所で寝ていては身体を冷やしますよ。」
穏やかな声が漢の頭上から聞こえて瞳を開いて見れば笑みを浮かべた若者の視線とぶつかった。
「あなたは・・・どうしてここへ?」
漢はゆるゆると頭を振って若者を見上げる。
「あなたが私に贈ってくれた馬でこの山を見に来たのですよ。」
若者は笑いながら視線を僅かに上に向けて先を示した。
後の世に「富士山」と呼ばれこの青い星に住む人々に愛でられる事になる山である。
・・・こんな所に弾き出されていたのか・・・・
漢は辺りを見回す。
相変わらず空は僅かにしか見えず濃い緑の葉が辺りを覆っていた。
「さぁ 戻りましょう。あなたが居ないと私も困る。」
若者は笑みを浮かべたままで漢の細く白い手首をつかんだ。
「斑鳩の皇子・・・」
漢は些かすっきりとしない気持ちのままに若者に手を引かれ黒く逞しい馬の背に乗る。
ばさっ!
馬の背にある大きな翼が開かれ一気に空へ舞う。
ザザザァッ
巨木の枝が大きく揺らぎ別れを惜しむようにざわめいた。


「もう 何処へも行かないでくださいね。」 皇子の声に漢はふっと我に返る。
柔らかに光る皇子の瞳の中に己が映っていた。
「申し訳ないことを致しました。 あのような場所でよくこの私を見つけてくださいました。」
漢の言葉に皇子は呆れたように瞳を見開いた。
「知らなかったのですか?」 皇子が言う。
「何を・・・・。」
「あなたの身体は光を発しているのですよ。」
「私の・・この身がでございますか?」
「自覚が無いのですね。」 皇子が穏やかに微笑んだ。


・・・・・自覚が無いのは皇子 あなたもですよ ・・・・

穏やかに視線を絡ませる二人を傍らで見ながら河勝は独り言ちた。
彼には漢が纏う光は見えない。
そして・・・っと思う。


       ★   ★   ★   ★   ★

遠く百済の王から仏像がこの国へ贈られて来た時誰よりも柔軟に受け入れたのはこの皇子であった。
幼きころより聡明であった皇子は仏像と共に贈られてきた経典や書物にも興味を示し誰よりも研鑽に励んだと聞く。
しかし・・・皇子の父親が病に倒れやがて崩御されたとき皇子は辺りを憚る事無く泣いて縋ったのである。
「私は誰よりも仏を敬い讃えてきた。 しかし仏は父の命を救ってはくれなかった。 真に仏はこの国に留まる意思があるのだろうか。」
皇子は泣いて義父になる蘇我大臣を詰りもした。
あの頃の皇子は聡明ではあったが普通の若者であった・・・と河勝は思う。
そんな皇子に自らの国でもある新羅に伝わる仏の法を教え諭し再び仏の道に戻したのは己であると河勝は当時を振り返っていた。
皇子の心が落ち着いてきたころ宮からこの斑鳩に居を移すことを進言したのはたしかこの漢であった。
河勝はもう一度視線を二人へと戻す。
二つの地は隔たりが大きく移動するのは多くの時を要する。
皇子は心穏やかに暮らす事を望みもしていたが政務を投げ出す気もなかったのである。
そんな皇子の心の揺らぎに輝くような笑みを浮かべて漢が皇子に差し出したのがあの天馬であった。
漆黒の姿で足の先だけ白く背についた翼は逞しく斑鳩と宮を瞬時に繋いだ。

・・・・ あの頃からだ。 皇子が只の聡明な若者では無くなったのは ・・・・
今もこうして・・・っと河勝は皇子を見た。
肩先に留まっている白鳥に耳を預けている皇子には鳥の言葉が理解できているのだろう。
河勝には鳴声にしか聞こえない。
しかし・・・毎朝夜明けよりも早く飛び立ち大きな円を描くように飛び回る鳥は皇子に民の事を伝えているのだと思えてならなかった。
なぜなら鳥の声を聞いたあとにならないと民とは会わない。
民の相談に答えることもない。

「皇子 そろそろ民のお話をお聞きくださらないと・・・皆 待ちわびております。」

漢の声に河勝は我に返った。

小さく頷いて皇子は鳥を肩に乗せたままで民が待つ広場へと足を向けた。

「た・・・玉響殿。」
河勝は皇子の後姿に視線を向けたままの漢に声をかけた。
漢はゆっくりと振り向きその色の薄い瞳で河勝を見詰めると小首を傾げた。
「なにかございますか?河勝様。」
漢の心地良い声が耳に届く。
「あなたは何故に皇子をこの地へと誘ったのでしょうか?宮の近くに寓すれば政に携わるものとして不便はないものを・・・」
河勝の言葉にいかにも驚いたと言う風に漢は目を見開いて口を窄めた。
「あなたがそれを仰いますか。」
漢はふっ・・・と笑いながら首を振る。
「あなたは・・・解っているはずです。」漢は河勝の顔を覗き込んで言葉を継ぐ。
ぐっと詰まって河勝は思わず身を退いた。
「海の向こうからこの国にやってくるには船しかありませぬ。 その船が着くのは・・・」
漢はすっと指を伸ばして山の端を指し示す。
「あの向こうでございます。お解かりでございますね。」
漢の試すような表情が河勝の瞳に映っている。
「ならば・・・お解かりでございましょう。 この斑鳩は宮より早く海の向こうの人に会うことが出来る場所でございます。」
漢は唇の端を僅かに吊り上げてニッ・・・と笑った。
「あなたが解らなかったとは思いませぬよ。」
漢は言い置くと話は終わったと判断したのか足早にその場を立ち去って行く。
その後姿を河勝ただただ見詰めているしかなかった。


以降(中)へ続きます





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