辺りは闇に包まれている時刻。
賀茂の屋敷の井戸で保憲は身を浄めていた。
都に蔓延る妖物を幾つか祓って来た。 瘴気が身に纏いついて耐え難く何度も井戸の水を我が身に掛けて濯ぐ。
ふっ・・・何かが動く気配を感じて保憲は渡廊に視線を向けた。
「なんだ 晴明か・・このような時刻に何処へ行っていたのだ。」 
声に出さずに一人首を傾げ保憲は晴明の身体から流れてくる淫靡な気を感じて瞠目した。
・・・ あやつも通うお方が出来たか。・・・・遊びを覚える年頃だからなぁ ・・・・
それも悪くは無い・・・保憲は我が身と比べて苦笑した。
「陽が昇ったら少しからかうのも面白い。」 保憲は良からぬ事を考えながら身を拭うと寝所へと向かったのであった。

夏の強い陽射しが庭の木々を照らしている。 薄物の単衣は透けて肌を仄かに映していた。
この季節は誰でも同じ、特に珍しい姿でもない。
保憲は被髪のままで晴明の元へ向かった。 ・・・ さて。どの様な顔をしている事やら ・・・・
何より書を好み 誰より修行に励み・・・少々面白味の無い奴だと思っていたが・・・保憲は頬が緩むのを止められなかった。
「おい晴明 入るぞ。」 遠慮する気も無く御簾を潜って晴明の寝所へ進む。
「保憲様。 このような時刻から何事でございますか?。」 
戸惑う事の無い応えが返ってきて切れ長の瞳に見詰められる。
ん?  保憲は訝しく思った。  昨夜あれ程感じた淫靡な気が微塵も無い。
「おまえ・・昨夜何処かへ出かけたか?」 
「保憲様。 何を仰いますやら・・・。」 訳がわからぬと言う態で見上げてくる視線に保憲の方がたじろいでしまった。
「いや 言いたくないのなら言わぬでも良いが恥ずかしい事ではないのだぞ。」
「は? 何の事でございます? 私は何処へも出かけたりしておりませぬ。」
晴明の言葉に保憲の眉が顰められた。
『虚事を言っているようにも見えぬ。』 保憲は真直ぐに己を見返してくる晴明の瞳を覗き込んだ。
「まったく・・・このような時刻から何を仰るのかと思えば・・・私は出歩くよりは書を読むほうが面白ぅございます。」
晴明は話は済んだとばかりに視線を外すと開いたままになっている書に手を添えた。

「それはすまなかったなぁ。」
保憲はしかたなく苦笑いを浮かべて室をでる。
・・・ そこまで言うのなら確かめさせてもらおうではないか ・・・・
保憲は腹の中で独り言ちた。
幸い今夜は出かける予定も無い保憲である。 出かけるか出かけないかこの目で・・な。

昨夜は心底から晴明を案じていた保憲であったが気がつけば何処と無く意地になっていた。
都の貴族は何よりも優美で無ければならぬ。
恋の駆け引きも出来ないようでは官の勤めもままらなら無いのがこの時代であった。
もっとも地下人である晴明が特にそれを気にする必要も今のところは無いのだがいつまでもこのままと言うわけにも行くまい。
血の繋がりは無いが幼童の頃から知っている保憲にとって晴明は実の弟よりも可愛い。
もしも良からぬ女人にでも誑かされているのなら手ほどきもしないと・・・・保憲は妙な使命感を覚えてしまった。


やがて陽が西に傾き空の色が変わり・・・・夕餉を終えても今朝方晴明が言ったとおり何処へ出かける風もない。
漆黒の空に北斗の七星が瞬き始めた頃になっても晴明の室の御簾が上がることは無かった。
・・ やはり俺の見間違いだったのだろうか ・・・ 保憲が小首を傾げたときであった。
音も無く御簾が上がってふわりと人影が現れる。
してやったりと保憲は拳を握ったが渡廊を歩く晴明の姿を見て目を剥いた。
小袖の上に単を掛け上袴だけで烏帽子もつけていない。
「あいつ・・・やはり悪い遊女にでも・・・・・」
保憲が門を出て行く晴明の後を追おうと踏み出したとき思わぬ声が聞こえた。
「抛っておけ。保憲。」 忠行の声である。
保憲は足を止めて背後を振り返ると意趣を含んだような笑みを刻んで忠行が立っていた。
「父様!」 保憲は思わず声を上げて詰め寄った。
「案ずる事はない。ほれっよく見てみよ。」
忠行の視線を追うように目をやった保憲は遠ざかって行く晴明が仄かに碧く光を佩びているのを認めた。
「ふん。見えるであろう。あの者がしっかりと護って導いておる。」 
「あれは・・・何なのですか?妖しとも思えませぬが・・・」
「保憲。おまえが以前連れて来たお方よ。まったく暢気に過ごして居るから憑かれた事にも気づかぬのだ。」
忠行が業とらしく米神に手をやって首を振る。
「まぁ良い。 晴明は陽が昇る前には戻るであろうからおまえは休め。」
話は終わったとばかりに廊を進もうとする忠行の袂を保憲は掴んで引き止めた。
「父様・・・何を企んでおりまするか。」 グイッと顔を近づけて忠行の耳元で保憲が囁くように問いかけた。
袂を掴まれたままで忠行は廊を進み日ごろ書き物をする室の中へと入って行く。
ずるずると保憲は引きずられるような形でその後へ続いた。

「我ら賀茂の家は代々都を護る事を為してきた。」
灯火も点けずに忠行が話し始めた。
外は闇。 星の帯が僅かに見える空から降り注ぐ月の光だけが有るか無しかの陰影を作り上げている。
「しかしな保憲。 そんな儂でも愉しみたいと言う欲くらいは持ち合わせておる。」
「それはもう・・・この私でも愉しみたいという気持ちはありますが・・・」 保憲は忠行が何を言いたいのかが解らず小首を傾げながら応えた。
「おまえのは唯の快楽であろうが・・まったく。」
忠行が微苦笑を浮かべたのが闇の中でも感じられる。
「保憲。おまえはまだ若い。詳しい事は時が来たら伝える事となろう。」
「晴明のことですか?」 朧げながら方向が理解できた。
声は無いが肯定をしたのが感じられる。
「あいつは残さねば成らない物があるのだ。 その為にこの時期にあのように導かれて出かけて行く事となった。」
「あの・・・この私に憑いて女人が来てからでございますね。」
「・・・そうだ。 首尾良く行けば儂の楽しみも増える。」 忠行が小さく声を上げて笑った。
「それは・・・・」 言いかけて保憲は昨夜に感じた晴明の全身を覆う淫靡な気を思い出しブルッと身を震わせて言葉を閉ざした。
「それがこの先どのような流れを産出するかは解らぬ。だからこそ愉しみでもある。」
忠行の言葉を聴きながら 
「きっと幼童が新しい玩具を見つけたような表情を浮かべているのであろう。」と保憲は独り考える。
「そう言う事であるから保憲。 おまえは休めと言うておる。」
忠行はこの言葉を最後に話を続ける気配は無かった。
知りたい事は山のようにあったが保憲は諦めて礼をとった後自分の室へと戻ったのである。


それから一年が経ちやはり星の帯が出る頃に晴明の夜歩きは行なわれた。
同じように碧い光に包まれて何処へ行くとも知れず・・・保憲は黙って見送るしかない自分に歯噛みをしていた。
それから一年・・・そろそろっと保憲は身構えて毎夜構えていたのだがこの年ついに晴明の夜歩きは行なわれなかったのである。
拍子抜けをした感のある保憲の傍らでしてやったり・・・とばかりに一人笑みを刻む忠行の姿があった。

それから半年・・・
東国で新皇と名乗る男が都への謀反を起こし破竹の勢いで勝利を収めているという噂に貴族たちは震撼としていた。
時は動き始めたのか。
















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