「山科へ行って来い」 忠行は晴明に告げた。
それは晴明が初冠を無事に終えた秋の事・・・

初冠は今の成人式にあたるが儀礼として行われる年齢は今よりはずっと早い。
家格など状況に応じて幅はある物の今で言えば中学生であろうか。
これ以後は一人の大人としての扱いを受けるようになるが精神的にも肉体的にもまだ少年の面影は強く残っていているのは否めない。

山科には賀茂家に縁のある寺があった。
そこの老住職が忠行と懇意で何かと訪れる事の多い寺である。
その老住職に初冠後の挨拶に行って来いと忠行は言っているのであった。
兄弟子でもあり賀茂家の嫡男でもある保憲が同道していく事になり二人は秋晴れの中を山科へと向かったのである。



「気持ちの良い風だな 晴明。」
保憲が脇に立つ晴明に声を掛けた。
「はい 保憲様。」
空を見上げながら晴明が応えた。

無事に挨拶を終え老住職との穏やかな時間を過ごした二人は小高い丘の上に立っていた。
秋の風は爽やかで空は青く何処までも続いているように見える。
「おっ!!」 保憲が何かを見つけたように北の空に視線を向ける。
「如何なされましたか?保憲様。」 不振そうに保憲の視線の先に晴明も貌を向けた。
「龍がやって来る。」
保憲の言葉に瞳を凝らして見れば青い鱗を全身に纏った一頭の龍が長い身体をうねらせながら南へと下ってくるのが確認できた。
「美しい龍でございますね。」 晴明は感嘆の声を上げる。
「あれは・・優鉢羅龍王のようだな。」 保憲が振り向きもせずに言った。
陽の光を受けて青い鱗は煌いている。 その瞳は深い海のようであった。
二人は言葉を交わすことも忘れたように美しい青い龍を見つめていた。

「保憲様。あれにも龍が・・・」
晴明の声に視線を動かすと西の空に漆黒の龍が東へと向かってくるのが見える。
「ふむ・・どうやら徳叉迦龍王のようだ。」
「保憲様は本当に良くご存知でございます。」 晴明が嬉しそうに保憲に言った。
「あの竜王はな・・・恐ろしい龍なのだよ 晴明。」
保憲は漆黒の龍を見上げながら言った。
「恐ろしいのでございますか?」
「あぁ・・・今は黒い目をしておるだろう?見えるか?」
言われて晴明は漆黒の龍を見つめた。
確かに龍の瞳は黒曜石のように黒く輝いている。
「あの瞳がな・・怒りを覚えた時には真紅に変わるそうなのだ。 その瞳に凝視された者はたちどころに息が絶えると言われている。」
「それは恐ろしゅうございますね。」
ふふっと保憲が微笑んだ。
「今はまだ黒い瞳であるから案ずる事も無いがな。」
「はい。 どちらの龍も真に美しゅうございます。」
二人は飽きもせず二頭の龍の動く様を見ていた。

・・・・・ここは龍の道の辻なのであろうか。 二頭の龍はここで交差して通り抜けて行くのだろうか・・・・

保憲がそのような事を考えていると優鉢羅龍王の動きがふっと止まった。
身体のうねりが小さくなりその頸をこちらに向けたのが解る。
深く青い輝きの瞳がじっとこちらを見下ろしていた。
・・・・あのように留まっては徳叉迦龍王の進路の邪魔になるのでは・・・・
保憲が考えたように漆黒の龍の姿がすぐそこまで近づいていた。
進路を遮られて漆黒の龍の体のうねりが小さくなった。
黒曜石のような瞳がジワッと赤く染まっていく・・・

「いかん!!」
保憲の声と共に晴明の視界が覆われた。
「見るでないぞ!」
厳しい保憲の声に気がつけば保憲の大きな袖で晴明は貌を覆われ腰を抱えられていた。
「保憲様!」 晴明は保憲の袖を掴んだ。
「動くでないぞ。」 声と共に二人は折り重なるように大地に倒れこんだ。
俄かに辺りが暗くなっていくのが袖越しに感じられる。
「動くなよ。」 保憲の腕に力がこめられて行く。
稲妻の閃光と雷の音が何度も続いているのを肌で感じながら晴明は身を硬くしてじっと耐えた。

どれほど時間が経ったのか・・・・
気がつけば穏やかに風が吹き渡っていく。 何処からか小鳥の声まで聞こえていた。
「保憲様・・・」 晴明は頭を支えてくれている保憲の掌をそっと触った。
「保憲様? もう大丈夫なのでしょうか。」  晴明は圧し掛かっていた保憲の背中に手を回してみる。
何の応えもない保憲を訝しく思いながら身を起こしてそっと辺りを見回した。
「保憲様?」 
晴明を護るように覆い被さった体制のまま動かない保憲の姿があった。
「やっ・・・保憲様!」
晴明は保憲の腕を掴んだ。 そっと離してみる。 腕は何の反応も無くそのまま地面に落ちた。
「保憲様?」  晴明の溜息が一つ・・・
「保憲様 保憲様!。」
何度も晴明の声が響いた。
「私は・・この晴明はいつもあなた様の背中を追っておりました。」
晴明の両の手が保憲の体を揺るがす。
「いつかは・・いつかは保憲様のように優れた陰陽師にっと思っておりましたに・・・保憲様。」
晴明の指が保憲の頬を撫でる。
「もう 叱っては頂けないのでございますか?もう笑っては下さいませぬのか・・・保憲様。」

何の反応も無い事に深い溜息をまた一つ吐いた。
やがて諦めきれぬように裾を引く晴明の手が静かに保憲から離れた。



・・・・ふふふ 可愛い事を言うではないか・・・・
保憲は秘かにほくそ笑んだ。

確かに徳叉迦龍王の瞳は真紅に燃えて危険だった事は嘘ではない。
しかし二人に害をなす気持ちが徳叉迦龍王に有ったか?と言えば「否」であろう。
怒りの先は道を塞ぐ優鉢羅龍王であり人である我らではない。
我らはただその瞳を見なければ良いっと保憲は判断していた。
・・・・・まぁ雷に討たれる心配はあったがな。 その時はその時のことよ・・・
保憲の根幹は大雑把な性格なのである。

・・・もう少し様子を見ておこうかなぁ・・・ 全身の力を抜いたまま保憲は考えた。
「保憲様。保憲様。」 晴明の細い指が頬にかかる。
・・・・なかなかに心地よいではないか・・・・
「もう この晴明の名を呼んでは下さいませぬのか。」
・・・・いやぁ 何度でも呼んでやるって・・・
「保憲様・・・」 ふっと晴明の手が自分から離れたのを保憲は感じた。
・・・どうした?・・・・
晴明の足音が遠ざかりふっと立ち止まって何かを始めたのが解る。
・・・何をしておるのだろか・・・・

ザクッザクッと地を掘る音が続く・・・
意味不明っとばかりに保憲はその身を起こした。
「何をしておる。」
晴明の背後から声を掛けてみる。
「埋めるのです。」 手を休めずに晴明が応える。
「誰を?」っと保憲。
「あなた様に決まっておりましょうが・・」 振り向きもしないで晴明が言う。
「俺か?何で・・」
「死は穢れでございます。ここに埋めて穢れを祓って差し上げます。」
「おまえなぁ!!何を言っているのか解っておるのか?」
「はい。 」
「俺は死んでなどおらぬ!」
「おや?生きておりましたか・・・全く気がつきませんでした。」
「よくもそのような事をぬけぬけと・・・」
「何事も無くて良うございました。」
悪びれる風も無い晴明の言葉に保憲は苦笑いをするしかなかった。

「叱ってくれっと言いおったな。 たっぷり叱ってやろうではないか」 
保憲が言う。

その声に晴明が振り返った。
保憲が見たのは思いっきり舌を出しておどけて見せる晴明の貌。
まだ充分に幼さが残る笑みを刻んで晴明は丘を駆け下りていく。

晴明!こら 晴明!! 待たぬか!
保憲の声が爽やかな秋風に乗って渡って行った。



 
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