「保憲様 助けてください。」
意識の中に晴明の声が飛び込んできた。
「晴明か?突然どうした。」
賀茂の屋敷の濡縁での夕刻の事。
片手に持った杯を舐めながら保憲も意識を飛ばす。
「小一条の屋敷にいます。身動きが取れません。」
キンッと保憲の表情が強張る。
「あの・・色狂いの屋敷になど・・・どうして。」
「来いと言われました。下手に反抗でもしたら首が飛びます。さすれば賀茂の家にもご迷惑がかかるやも・・。」

宮中の権力を全て一族が押えていると言っても過言ではない藤原家の屋敷である。
・・・・・確かに下手な動きはできない・・・・
さて・・どうしたものかと保憲は思案する。要は小一条が自ら晴明を屋敷の外に出すように仕向けないとならぬと言う事だ。
「保憲様 小一条の牛車が間もなく戻ってまいります。」晴明の声が告げる。
「んん・・・」何か良い考えが浮かばぬものかと保憲は頭を振った。
「保憲様 お助け頂けないのでしたら・・酒呑童子様にお願いいたしますから・・・。」幾分冷たい響きの声が告げる。
「酒ッ酒呑童子にだと!!。」思わず声が外に吐き出された。
「はい。本当に頼りない事。。。日頃愛しいとか仰っていたのは口先だけだったのでございますね。」ここを先途と晴明がさも哀しげに言い募る。

「おい 俺の名を呼んだか。」庭先から低い声がした。
ハッと視線を向ければ緋色の水干を着た若者が立っている。
「晴明の姿が見えないようだが・・・何処かに出かけているのか?」若者が保憲との距離を詰めた。
「酒呑童子・・・まぁ良くもこの瞬間で現れるものよ。」っと保憲。
「晴明は・・・小一条殿の屋敷です。」努めて冷静を装い保憲は言う。
「小一条の屋敷だとぉ!!あの色狂いで晴明に懸想している・・・保憲!おまえは良くあのような所へ行かせたな。」
酒呑童子の声に怒りが含まれた。
「私が行かせた訳では有りません。連れ込まれたようです。」
「今から取り返してくる!」酒呑童子は今にも飛び出しそうな勢いで宙に浮かぶ。
「まっ待ってください。下手なことをしては・・・。」何しろ相手はあの藤原なのだ。

「何やら剣呑な空気が漂っているな。」庭先からがっしりとした体格の男が濡縁に近づいてくる。
・・・今度はこいつか・・保憲は頭を抱えた。
男の名は蘆屋道満。保憲の父である忠行の兄弟弟子だったと言われている。
「晴明が見えぬな。」・・・こいつもだ・・・保憲は肩を竦めた。

「晴明は小一条殿の屋敷だ。」何度目かの説明を保憲は口にした。
「ほう・・これは異な事。」道満の目が僅かに見開いた。
何か知っているらしいっと二人の視線が道満に向けられる。
「いやぁ まさか晴明に使うとは思わなんだ・・・。」ニヤァッと笑いながら話し出した。
それは七日ほど前の事・・・高位と思われる男が道満の元を訪れて善からぬ薬を所望したのだ。
「それが小一条だと言う事は解ったが薬を使う相手がまさか晴明だったとはなぁ。気が付かなんだ。」
嘘か真か解らないような笑いが道満の口元に浮かんでいる。

「保憲様 小一条が戻ってきました。」晴明の声がする。
「クソォッ!あの爺ぃ。」保憲が声を絞り出した。
「もう待てぬ。俺が行く。」酒呑童子の声と共にその姿が朧になって庭先から消えた。


小一条の屋敷の奥・・
香が炊きこめられた塗籠の中に晴明は横たわっていた。
これ以上無いほどの笑みを浮かべた小一条が衣擦れの音と共に入ってくる。
すっと襟元に小一条の指がかかった。
晴明は身動ぎもしない。
満足そうな表情が小一条の全身に溢れている。
ずいっとにじり寄る小一条の耳に聞こえる筈の無い声が入ってきた。

「返してくりゃれ 返してくりゃれ・・・」
それは女人の声であった。
不審に思って振り返る小一条の目に映ったのは美しい女人であった。
薄暗い中でボゥッと浮かび上がるその姿は明らかに人成らぬもの。
「わわわ・・。」小一条は腰が抜けたように後ずさる。
背後に横たわる晴明は女人の姿に目を見張った。
・・・・これは・・・いやぁ姫姿もなかなか・・・晴明の目が笑った。

「晴明は妾のものぞ。返してくりゃれ。」人ならぬ女人の細い指が震えている小一条の頬にかかった。
指先には長く鋭い爪がある。「返してくりゃれ。」
にまぁっと笑う女人の唇がクイッと上がる。キラッと牙が見えた・・ような気がする。
「かっ返す。返すから助けてくれ・・・」すっかり腰が引けた小一条はふるふると体を震わせながら女人から身を離そうと後ずさる。
自分の背後にいる晴明の肩が揺れている事には全く気づく筈も無い。
・・・くっくっく・・・晴明は溢れ出る笑いを抑えるのに懸命であった。

小一条殿の門の前の牛車まで晴明を運ぶと約束をさせられて小一条がホッとため息をついたと同時に女人の姿が朧になっていった。
我に返ったように肩の力を抜いた小一条の手が再び晴明の襟元に伸びて行く。
・・・ゲッこの状態になってもまだ諦めぬのか・・・晴明の身体が強張る。
「返してくりゃれ。」 間髪をいれず小一条の耳元で囁くように女人の声がした。
悪戯を見つかった童のように素早く手を引いた小一条は家人を呼んで晴明を門の外にいる車へ運ぶように指示をした。
・・・惜しいものよなぁ・・・未練たらしく視線を晴明に向けるが人ならぬものに祟られたらもっと恐ろしい。

門の外で待っていた車に晴明の身体を投げ込むように置いた家人は後も見ずに我先にと屋敷内に駆け込んで行った。
ゴトゴトと音を立てて牛が勝手に車を引いていく。

「晴明。無事か。」低い声が聞こえる。
小一条の屋敷からかなり離れたところで車は止まった。
簾をあげて晴明が降りてくる。
「はい。酒呑童子様のおかげでございます。」
艶っぽい眼差しを投げ掛けて緋色の水干を纏った若者に駆け寄る晴明。
ふわっと袖に包まれながらツィッと視線を在らぬ方向へ向けた。
「それに致しましても・・・」晴明の声が氷のように冷たい。
「保憲様には・・・」
「まぁ良いではないか。」酒呑童子が鷹揚に笑った。
暗闇から二つの影が走り寄ってくる。
「おぉ!!晴明 無事であったか。」保憲の声であった。
「これは・・保憲様。 このように酒呑童子様に助けて頂きました。真に頼り甲斐のあるお方でございます。」
嫌味ったらしく晴明が言う。
「おぅ晴明 身体に不具合は無いか。」 こちらは道満の声。
「いたって普通でございます。」
「薬の障りは無いのか?」
「はい。どのような障りが出るのかは飲んでいないので解りません。」晴明は当たり前のように答えた。
「なっ!!なれば身動きが取れないなどと・・・」
保憲が詰め寄る。
「そもそもこの騒ぎの最初はおまえが助けてくれと言うから・・・」
「身動きは取れませんでしたよ。保憲様。相手は小一条殿でございますから。」
袖で口を隠していても晴明が笑っているのは確かだった。
「まぁ 俺が知って良かった。そうで無かったら あの色狂いの爺ぃに何をされたか知れたものではない。」
酒呑童子は晴明を袖の中に隠すように包んだまま満足そうに言う。
「はい。真の心はこのような時にわかると言うもの・・・」
「この口はかわいらしい事を言う。」
酒呑童子は親指で晴明の唇を撫上げた。
「晴明 俺だとて手を拱いていた訳では無いぞ。」保憲が晴明を腕を掴んで酒呑童子の袖の中から奪い取る。
「おや?そうでございましたか?全く気が付きませんでした。」保憲の腕の中で拗ねたように晴明は言う。
「この口はなんと冷たい言の葉を紡ぐのか。」
保憲は指先で晴明の唇を突いた。
ツンッと晴明の顔がそっぽを向いた。
「薬の使い先がおぬしだとは思わなかったぞ・・・・おぬしが素直に飲む珠でもないだろうが・・・」
道満がニヤニヤと笑みを浮かべながら晴明の細い腕をガッシリと掴むと自分の方へと引き寄せた。
「またそのような戯言を仰る。私はただ飲むほどアホではございません。」
チラッと流された視線は限りなく冷たい。

「とにかく疲れました。戻ります。」
何事も無かったように一人歩き出す晴明。
「おい 攣れないではないか。」
三者三様に晴明の後を追う。
「まったく・・・これだけの三人が揃っていてこれほど手間がかかるとは・・・情け無ぅございます。」
振り向きもせず言い放つ晴明の声に三人は身体中の力が抜けるようにその場に立ちつくした。
やがて・・・お互いの顔を見交わしながら
「かっ可愛くない事を言う口だな。」

平安の都の闇を統べるもの達の遣る瀬無い戦いは続く。



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