大内裏の南に開く朱雀門を潜って若い文官が姿を現した。
特に急ぐ風でもなくゆっくりと進めるその歩みに寄り添うように穏やかな風が通り過ぎていく。
桜はとうに散り終え、辺りには藤の甘い香りが漂い、長雨の季節まではまだ間があった。

ほう・・・小さく息を吐きながら空を見上げた文官にはまだ幼さが残っている。
西の空が茜色に染まるまでは今しばらくの時が必要な刻限であった。
若い文官はまっすぐに南へと下る大路を歩き始めると、なんとも意味深長な笑みを片頬に刻んだ。

「なかなかに凛々しい姿ではないか。」
どこからとも無く声が聞こえる。
「何をおっしゃいますやら・・・。」
さらに笑みを深くした文官は大路の端にある大樹を見上げた。
「安倍晴明。後盾は見つけたか。」
大樹の陰から笑いを含んだ声が返ってくる。
「そのような者は地下の私にある筈もございませぬよ。朱呑童子殿。」
晴明と呼ばれた若い文官は肩を竦めて見せた。
「あなたのように雅な方こそ後盾がお有りなのではございませぬか。」
晴明と呼ばれた若い文官の問い掛けに朱呑童子の眉が顰められる。
「何の事だ?我は鬼ぞ。それこそ雲上人との繋がりはない。」
朱呑童子の応えに文官は声を出さずに笑った。
「笛を・・・渡されましたな。」
朱呑童子は小首を傾げて暫し思案をするようであったが
「業平の事か?また随分と前の事を・・・ぬしが生まれる前の事ではないか。」「真の事であったのですね。」
晴明が応えながらさり気なく背後を窺がうと
「参りましょうか。」小さく囁き歩を進めた。
背後の朱雀門から何人かの官人が姿を見せこちらを窺がっている。
樹上にいたのであろう朱呑童子は緋の水干姿を現し何事もなかったかのように晴明の傍らに立って歩を揃えて歩み始めた。
この通りに屋敷をを構える人々はなぜか大路に面して門を造らなかった。
その為いつの頃からか庶民は勝手気ままに耕し始め作物を得るようになり、今も大路の端に植えられている丈の低い木が花を咲かせようとしている様が見受けられ、それは秋に豆か何かが収穫できる事を告げていた。
穏やかに揺れる葉を見るともなく視線を送っている晴明の袂を朱呑童子がついっ・・と引き寄せて大路と屋敷の間へと歩を進めていく。
以外そうに表情を動かした晴明であったが何も言葉を発する事もなく大路を背にして同じように進めば眼前に西の堀川が見えてきた。


川を臨む草叢の上に軽い音を立てて晴明は腰を下ろして大きく伸びをした後でごろりと横になって目を閉じた。
目蓋を通してゆらゆらと揺れる川面が陽の光を反射させて煌いているのが感じられてなんとも心地良い。
白い指先に風で揺られた草の葉が時折絡んでくるのを楽しんでいた晴明は脈絡もなく何かが心の隅に引っ掛かった。
あれは・・・・
過ぎ去った時を掘り起こすように記憶を弄っていると獣の匂いが鼻を擽るのを感じた。
不審に思いながら晴明が目蓋を上げると朱呑童子の含みを帯びた笑みが間近にある。
「晴明。」
朱呑童子が問い掛けるように名を呼び
「まだ死を望んでおるのか?」と言葉を継いだ。
莞爾と笑顔になった晴明は事も無げに応えた。
「生きる事に執着はございませんが死ぬる事を望んではおりませぬよ。」
・・・そうであった。あれは・・・・


何時死んでも良いと思っていた。
母が浮かべるのは恐怖と忌み嫌う眼差し
父が向けるのは疎ましいと思う心
そこに吾子を好ましいと思う気など微塵もなかった。
不要になった小箱を運び込むように己が届けられた先が賀茂忠行の屋敷である。
平の都を護る陰陽師を数多く排出し、その身の位は低いが菅原家の後盾を持つ家である。
人ならぬ物を見る才を持つ者も多く、晴明に対する恐怖を持つ気配はさすがになかったが代わりに向けられたのは嫉みと妬みであった。
居場所がない。
生きる意味を見つけられぬ。
生きる意味がなく、いる所が無いのであれば何故に生きねばならぬのか。
幼い晴明は死ぬ切掛けを求めた。
それが・・・

あぁ・・・この場所であったな・・・晴明は穏やかな風を受けながら呟いた。
「聴こえたのであろ?」
何を?とも何処で?とも言わず朱呑童子の声の問い掛けに晴明は暫し瞬きを繰り返した。
「聴いた。」
晴明も何を・・・と言わずに応えて幼かった時期に思いを馳せればそれは昨日の事のように鮮明に目蓋の裏に浮かんでくる。

賀茂の屋敷での修行は嫌ではなかったが嫉みと妬みの視線に、幼かった晴明は陰陽の技の修行にも意味を見出せなかった。
或る日の事 修行を抜け出してこの堀川の淵へやって来たのも目的があったわけではない。
投げ出すように草叢に身体を転がして、何故生きている必要があるのかと己に問うた。
そこへ数頭の山狗が現れたのである。
餓えているのか気配は剣呑であった。
ふっ・・・・と晴明は唇の端に笑みを刻んで山狗に目線を合わせた。
「喰らえば良い。それで終わりだ。」
言うと晴明は目蓋を閉じてその時を待った。
警戒しているのか山狗は近づいては来るが噛み付く気配は訪れぬ。
「お前たちは腹が膨れる。おれはこの世から消える事ができる。どちらにとっても良いではないか。」
晴明はじっと眉間に力をこめてその時を待った。
獣の匂いが強くなる。頬に山狗の息がかかる。
・ ・・これで終わる・・・・
晴明が息を止めてその時を待っていたが山狗の気配が突然退いた。
死ねると覚悟を決めていた晴明は不審に思い薄く眼を開くと己から立去って行く山狗の尾が見えた。
小さくなって行く山狗は何かを求めるように空を見上げている。
わずかに尾を振るその姿を晴明は身体を起こして呆然と見送る形となった時・・・聴いたのだ。
己よりは幾つか上ではあるがまだ童の手と思われる笛の音であった。
低い雲を薙ぎ払うような強い音色ではなく手もそれほど上手とは感じられぬ。
それでもその笛の音は何処までも清んでいた。
晴明は心の臓を掴まれたように思わず身震いをしたものだ。
やがて笛の音が風に紛れるように消え去ったとき、晴明は己の身のうちにあった死を望む思いが消えている事を知った。

「あれは何であったのか。」
幼かった晴明は今こうして初冠を終えて陰陽寮に出仕しているが、あの時の出来事はいまだに良くわからない。
ただ・・・死に対する執着は無くなったが、生に対する執着も持てぬまま飄々と日々を送っていたのだ。
「あれは・・な。」 朱呑童子の声が穏やかだ。
「知っているのか!」 晴明は問うた。
「あれは醍醐帝と呼ばれる男の初めての内孫よ。名を博雅王と言ったな。」
晴明の笑い声に朱呑童子は訝しげに見返してくる。
「やはり朱呑童子殿は雅なお方だ。雲上のやんごとなき童の名前もご存知だ。」
笑いを堪えながら晴明が応えた。
「我は都の鬼、妖物を統べる鬼ぞ。都の行く末くらいは楽しんでも良かろうが・・」
朱呑童子は憮然とした声で言葉を継いだ。
「まぁ とにかく・・・」 
言いながらパンパンッと掌についた土を払いながら晴明が朱呑童子を見上げた。
「あの時の笛の音は博雅王であったと言う事ですね。」
「そうだ。ぬしが死に拘らなくなったのはその時からであろ?」
・ ・・そうなのだ。何故かは判らぬ。しかしあれ以来敢えて死の淵へ己から向かおうと言う気は失せていたのだ。・・・・
「その帝に慈しまれている博雅王の音にしては何やら憂いがありましたが・・。」
晴明の声に
ふん
朱呑童子は鼻先で笑う。
「親がのう・・・病に臥せておった。幼いながらも先は短いことを感じておったのだろうよ。」
「そのような時期でありましたか。」
応えながら晴明は思った。
・ ・・それでも親の慈しみは有っただろうさ。・・・
今の晴明には失いたく無いと執着する物など一つとして無い。
「それで・・・その童は如何しているのでしょうな。わたしより年長でありますれば今頃は殿上でございましょう?」
「この春に無位から四位に上がったそうだ。」
朱呑童子が事も無げに言った。
「それはそれは・・・やはりわたしのような地下の者とは関わりはございませぬな。」

二人の間を穏やかな風が吹きぬけ、鳥の囀りが耳を掠めて行く。

「所詮はあの男の血筋という事。下々の身分と交わる事もありますまい。」
さして興味も示さずに呟く晴明に朱呑童子は一言応えた。
「それは判らぬ。」
小首を傾げて訝しげに見上げる晴明に朱呑童子は尚も言葉を継いだ。
「人と言う生き物は予想もつかぬ事をするものだ。時として己の想いとは反対の事も平気でする。」
「鬼はせぬ・・と申されますか。」
晴明が揶揄するように言った。
「せぬ。・そういう意味では鬼より人のほうが御しがたいものぞ。」
朱呑童子は、これだけは譲れぬと応える。
僅かに顎を引いて晴明は頷く。
「それで?その四位に上がられた親王にも匹敵する血筋の方が如何いたしたと言うのです?心持とは反対に地下に交わるとでも仰せか。」
この世の中は官位が全て、血筋が全て・・・
もっとも官位を上げようとも思わぬし内裏の権力を掌握している藤家との関わりもごめんだと晴明は考えていた。
己の命数が尽きるまで寮の仕事をこなしていればそれで良い。
そんな晴明の心内を読んだか朱呑童子が言った。
「臣下に下った。」
ハッとしたように晴明が顔を上げると皮肉の表情を浮かべた朱呑童子の目が己を見ていた。
「慈しんでいたであろうにな。今の帝になった男は博雅王に源の姓を授けたのよ。博雅王と呼ばれていた童は源博雅と言う男になったのだ。」
「何時の事です?」
訝しげに晴明は問うた。
「つい先ほどの事よ。」
「それでわたしの前に現れた・・・と言う訳ではございますまいな。」
晴明の目が薄く閉じられ視線が険しくなった。
「それ以外に何がある?」
朱呑童子の応えに晴明は小さく鼻を鳴らした。
「神の末裔ではあるが人の世に降りてきたと言うことだ。ぬしと交わらぬとも限らぬ。」
「殿上人です。それも上達部だ。陰陽師などその辺りに落ちている石のような物ですよ。」
「随分と卑下するではないか。」
朱呑童子が呆れたように言いながら晴明を見た。
「事実を言ったまでです。」
晴明は憮然とした表情で応える。
「人は解らぬ。先の世の事など尚わからぬ。」
朱呑童子は空を見上げて呟いた。
「それほど人の世が気になるのでしたらこちらへおいでませ。」
晴明が揶揄するように言う。
「知らぬのか?」
「何を?」
「人は鬼には成れるが鬼は人には成れぬのだ。共にと言うのなら、ぬしがこちらへ来るしかないぞ。」
ぷっ!
とうとう晴明が笑いを吹いた。
「鬼も人も生きるはこの都。」
「そういう事だ。」
頷く朱呑童子に晴明は緩やかに首を左右に振った。
「わたしは都に拘りはありませぬ。」
「それもまた一つの生き方よの。」
二人の傍らを穏やかに風が吹きぬけ、西の空が僅かに染まり始めている。

「良い風だな。」
「良い風でございます。」
「楽しい世であるかな。」
「先の事は解りませぬよ。」
互いに相手の顔を見つめ視線を絡めた後僅かに笑みを刻んだ。
「では・・な。」
「はい。」
そのまま二人は背を向け合って堀川を立ち去る。
染まり始めた空を鳥が舞い鳴声が木霊のように響きわたった。
後に平安京一の大陰陽師と賞賛される事となる安倍晴明 十四の春深き日のことである。


交わる事の無いと思われた源博雅と安倍晴明の二人が星の定めによって強く絆を結び、都を滅びから護ることになったあの事件はこの時より二十年以上後の事となる。
この戦いに朱呑童子が関与したかどうかは、当時記されたどの記録に残っていない。






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