「脱げ。」

表情の無い声を掛けられた幼童の足が止まり片眉が引き上げられた。

「それは私に言うておるのか?」
半尻と貴族の間では呼ばれる後丈の少ない狩衣を身に着け小袴を履いた声の主は何処から見ても年端も行かぬ幼童である。
しかし声の主に問いかけるは姿に似合わぬ鋭い視線であった。
「決まっておろうが。 他に誰がいると言うか。」
応えた声の主は銀色の総髪姿であった。童を向けられた指の爪も人ならずほどの長さであるのが見て取れた。
「何故に私が衣を脱がねばならぬのだ。」
童は脅えるでもなくなおも問いかける。

ふむ・・・・
総髪の者は暫し首を傾げて童の姿を繁々と見詰めた。
その歳では知らなくても不思議は無いか・・・
その者は一人呟くと改めて童に視線を向ける。
「ぬしの名は何と言う。」
「人に名を尋ねるのなら先に名乗るのが礼儀と言うものではないのか。」
臆せずに童は唇の端を上げて微笑えんだ。
「当に道理であるな。我の名は衣翁と言う。」
「私の名は晴明。まだはるあきらと呼ばれている。」
「そうか晴明か。 ならば晴明。此処での決まり事を教えてやろう。」


辺りは闇でもなく昼の陽射しがあるでもない。
ぼう・・と仄かな薄明かりに包まれて空も見えないその場所にさらさらと水の流れる音だけが聞こえていた。
水の流れる音からかなり広く急な川があるのが感じられるこの場所に何故自分が居るのかが晴明には解らなかった。
そこで衣翁が教えてくれると言う話に耳を傾けることにしようと僅かに顎を引いて翁を促した。

「ここに来た者はまず衣を脱がねば成らぬ。」
「何故だ。」
「それが決まり事であるからだ。」
翁は言うと自分の背後を指し示した。
その先には広く枝を広げた古木が根を張っていた。
「あれはな。衣領樹と言う。人の罪を測る木よ。」
「「罪を測る?どういう事だ。」
晴明は小首を傾げて木の枝を見詰めた。
「ぬしは人の世を離れたのだ。理解できない年頃かも知れぬが此処に来たと言うのはそういう事ぞ。」
「私は・・・死んだのか。」
病を患った記憶も無く誰ぞに襲われた記憶も無い。その外に思い当たる因もない。
一体何時死ぬようなことになったのか・・と晴明は思いを廻らせたががやはり思い当たるところがなかった。
その姿を眺めながら翁が声を継ぐ。
「その歳であるから訳の解らないうちに死ぬる事も多い。であるからにして決まりには従ってもらう。」
翁の声に納得は出来ぬが確かにこの場所へ来てしまったのならそれが道理であると晴明は帯に手をかけてゆるりと足元へと落とした。
肌が露になるを気にもかけず様子で蜻蛉に手を掛けはらりと狩衣を落とし袷もその上に重ねた。

「本来はな。衣婆がこの役目をするのであるがちと他の用事が有って大王の所へ出かけておる。従って・・我がその衣を脱がせるところからやらねばならぬ。」
言いながら翁は足元に広がっている衣を拾い上げ背後の枝に懸けた。
「ほれ。それもじゃ。」
晴明は翁に指し示されて苦笑った。
「これも・・か。随分と容赦の無い理であるな。」
「当たり前じゃ。何処に罪が潜んであるか判らぬからな。」
言われて晴明は下帯を解くと翁に手渡した。

今はどの様な季節であったか・・・
一糸纏わぬ身になりながらも晴明は思いを廻らせていた。
寒さも感じず暑くもない。
何とも不思議なところよ・・死ぬるとはこういう事か。・・・・・


「これはどうした事か!」
翁が枝に懸けた晴明の衣を揺らしては枝を見直している。
「何かおかしな事でもあるのか?」
晴明は己の思いから解き放たれて翁に視線をなげる。
「枝が・・・動かぬ。」 翁が狼狽えた声で応えた。
「もう身に着けている物は無いぞ。これ以上は渡せるものもない。」
「解っておるわ。」
晴明の声を翁の声が遮った。
・・・ しかし しかし ・・・・
衣翁は一人考える。 罪のない人なぞ居るものなのか。
しかし・・・何度目かの「しかし」を繰り返して枝を見直すもやはり枝はピクリとも動かぬ。
「親に先立つは罪と言われておる。」 翁は問うでもなく口にした。
「あぁ そう言われているな。」 と晴明。
「ぬしの親はどうなのだ。ぬしより先に此処を通ったのか。」
「さぁな。私には解りませぬよ。」
「解らぬ事は有る無い。親の膝で遊んでいる年頃ではないか。」
翁の問いに
ふふん
晴明は鼻を鳴らして苦笑う。
「もちっと幼き頃に親元は離れている。それから後の事は解らぬ。会っていないからな。」
「その歳でか。」
翁は首を振った。
「嫌だと抗いきれる歳でもありませぬしな。」
ふぅ・・・ 翁は深く息を吐いた。  それにしても・・・そこまで考えて翁は大事なことを思い出した。
「ぬしはここまでどの様にやって来た?」
翁の問いに今更これかと思いながらも晴明は見えない空へと視線を向けてみる。
「気がついたら此処にいた。衣翁殿の声で何と無う我に返ったと言うべきか。」
晴明の応えに翁は瞠目しに・三歩後ずさった。
「ぬしは山を越えてはこなかったと言うか。」
「山?」 晴明は覚えがないと言うように小首を傾げた。
「本来・・・」 翁は渋い表情を浮かべて腕を組む。
「此処へ来るまでの間に幾つもの山を越えて後に此処へたどり着くものなのだ。」
「そうなのか?」
「そうだ。」
翁は晴明の瞳をじっと見つめ更に言葉を継ぐ。
「衣婆が衣を預かりこの我が木の枝に懸けて罪の重さを測りそれによってこの川を渡る方法が決まるのだ。」

見れば大層幅広い川が流れているのが見えた。
先ほどから聞こえていた水音はこれであったか。・・・・晴明は一つ納得したように頷いた。
「罪の軽いものは浅瀬を渡れる。罪が重たいものは深瀬を渡らねば成らぬ。そして・・・・ごく稀に川に入らずともあちら側へ渡れるものも有る。」
言うと翁が指を宙に上げて指し示した。
虹色の光を帯びた橋が朧げに見えている。
「あれを渡れるものは真に稀であるのだ。それでもいない訳ではない。 しかし・・・なぁ。」
言うと翁は繁々と晴明を見返しまたも首を振っている。
「ならば・・・山を通って来直そうか。」
晴明は悪戯を思いついたように翁へ声をかけた。
「やり直すと言うか。」
呆れたように翁が言う。
「そのような事は今まで聞いたことがないぞ。」
翁の戸惑ったような声に
「それでもこのままでは先に進めませぬ。翁殿も困るであろうに。」
常なら衣婆と衣翁の二人がこの場所で事を成している筈なのだと翁は言っていた。
一人でその事を成しているのなら早く収めたほうが良かろう
晴明は言ってみるが翁はまだ躊躇しているのか戻れとも行けとも言わぬ。

「あぁ面倒なことだ。ここは翁殿が決めることぞ。」
晴明は存外に短気である。あれやこれやと訳も解らぬにいつまでも拘っているのに腹が立ってきた。
「翁殿。気の済む様に私の行く方向を決めてはくれぬか。。」
言い置くと衣も着けていないままその場にごろりと横になって目を閉じる。
「決まったら起こして頂きたい。」
翁の応えを待つでもなく穏かな寝息が聞こえてくるのに翁はさて・・・どうしたものかと考えを廻らしていた。


        ☆     ☆     ☆     ☆     ☆


「この様なところで寝ていては身体を冷やすではないか。」
温かな物を頬に感じて晴明は薄く眼を開いた。
「保憲様?」
柔らかな両の掌が己の頬を擦っているのを感じて晴明が見上げれば見知った顔が不安げに見下ろしていた。
「保憲様」
小さく名を呼びながら袂を掴み辺りを見れば馴染み深い賀茂家の南庭の簀子に居た。
「いくら季節が良いからとて転寝が過ぎれば風病に罹る事もあるのだぞ。晴明。」
苦笑いを浮かべながら慈愛のこもった表情で保憲が晴明の肩を抱きしめた。
「保憲様。」
肩に頭を預けるように身を預ける晴明を見下ろしながら保憲はふ・・と眉を顰めた。
・・・なにやら危ない夢でも見ておったか ・・・・・

幼いとは言え晴明が易々と悪夢に囚われるような事はない筈だと保憲はそっと探ってみる。
「安心せよ。ここはお前のいる場所ぞ。ほれ、 俺も傍らにいるのだよ。」
言葉をかけながら保憲は晴明の背を優しく撫でる。
その時保憲の目は晴明の袴の裾に違和感を感じて眼差しを強めると右手の指を静かに近づけた。
二本の指が摘み上げたのは白い蝶。
羽がかなり病んでいる。もう先も長くは無い。と言うよりは当に尽きなんとしていた。
それでも晴明の袴をしっかりと掴んだ細い足は離れようとはせず保憲の引っ張る力に抗っていた。

「そうか。」 保憲が眉間に皺を寄せた。
おまえは一人で逝くのが寂しかったのであろうな。・・・・それで晴明に縋りついたのか。
保憲は何とも複雑な笑みを刻んだ。
しかしな・・・・
「その望みは叶えてやれぬな。」 小さく呟いた。
その声を耳にして晴明が顔を上げた。
「保憲様?」
「あぁ 何でもないよ。」
左手で晴明の頭を胸に押し付けると息だけで呪を唱えた。
右手の中の蝶が僅かに震える。
「すまぬな。 こいつをお前にやる訳には行かないのだ。一人で逝ってくれ。」
ポッと蝶の羽が輝きその姿は忽ちに消え去った。

保憲は暮れ始めている空に向かって呟いた。
・・こいつは俺の珠なのだよ。手放す事など出来ぬ相談さ・・・・









                                   完了



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