「あぁ いらっしゃったのですね。」
豊かな黒髪が吹き渡る微風にそよいでいた。
茜色の裳がふわりと広がり穏かな表情の相貌に映えている。
その優しい声に誘われるように童が一人近づいて来て音もなく座り込んだ。

遠い昔 この地は湿地帯だった。 都を造る為に色々と工事が行われ今その面影を残すのは逃れそこなった水跡の沼だけである。
人工的に作られた物では無いので形も不均等で人が訪れるような場所ではなかった。
池の傍に立ち枯れたように残された古木が今にも崩れそうに立っている。
その古木に蔓が絡み付いて青い葉をつけていた。
何処か離れた所に落葉樹でもあるのだろうか・・・
褥のように落ち葉が幾重にも積もって夏の終わりの陽射しを受けている。

「気にする事はありませんよ。 心のままに泣けば良いのです。」
おっとりと包み込むような声と共に細い指が童の頭を抱いてそっと自分の胸に寄り添わせた。
「茜様・・・」 童は小さく呼ぶ。
「ここにいる間は誰の眼を気にする必要も無いのですよ。悲しい事があったのですね。」
茜と呼ばれた女人は胸の中で瞳を閉じた童の目尻から流れる涙を指で拭い取った。
「・・・ぁ・・ぁ・・・・・」 緊く結ばれた童の唇から嗚咽が漏れて頬を涙が細い筋を作る。
「辛い事があったらここへ来れば良いのです。 ここで涙と共に流してしまえば・・・」
女人は止め処も泣く流れ続ける童の涙を指で拭い続けている。
震える童の肩にそっと手を乗せて赤子をあやす様に柔らかにたたく。
肩にかかる梳かれた童の細い髪を指先で撫でた。
「茜様・・・」 童は甘えるように名を呼んで己の頭を尚も強く胸に押し付けて行く。
「何時でも私はここに居ますよ。 あなたの心が流す涙をこうして拭ってあげましょう。」
女人は言うと見上げる童の瞳に溢れ出た涙をそっと唇で吸い上げる。
童の貌が恥ずかしさの為かほんのりと朱に染まった。
「また・・・お出でなさい。 ここで心のままに泣けば良いのです。」
童は悩ましげな視線を女人の向け応えるでもなくその場を立ち去った。・・・・



・・・・・・なんと健気な事よ・・・・・ 保憲はじっと庭先を見ていた。
その視線の先には夏の終わりを告げる陽射しが降り注ぎ草木が濃い緑からやがて黄色く変化しようとしている。
その庭を幾分頼り無さそうな足取りで横切っていく童がいた。
抱えきれない程の書物や巻物の重さに必死に耐えて運んでいる。
「晴明!!落とすでないぞ。」 兄弟子の声が容赦なく飛んでいるのを保憲は耳にした。
「はい。」 声変わり前の少し高い声で晴明と呼ばれた童は足を速める。
・・・・・少しは労ってやれば良いものを・・・
保憲は一人言ごちてその場を後にした。
・・・・晴明が音を上げた所は見た事が無かったな・・・・
保憲はふと振り返ってみる。
思い出せるのはギュッと唇を噛締めて黙々と身体を動かす姿ばかりであった。
「辛いことも多いで有ろうに・・・健気な事よ。」 つい言葉が漏れ出ていた。

保憲が晴明の表情の変化を感じたのはそれから暫く後の事であった。
季節が動き辺りはすっかり秋の気配が濃くなって黄色や赤に染まった葉がちらほらと散り始めた頃の事である。
屋敷の奥にある井戸の裏手で何やら剣呑な気が感じられた。
保憲はそっと気配を消して覗き見ると何人かの年長の弟子たちが蹲っている小さな塊を蹴ったり叩いたりしている。
思わず眉を顰めた保憲はその小さな塊が晴明であることを確認した。
・・・またか・・・ ホウゥッと溜息をつく。
・・・妬んでみたとて己が変われる事は有りもしないのに・・・ 保憲は人影が無くなったのを見届けると晴明の元へ足を向けた。
「晴明・・」
保憲の声にもそもそと身体を起こした晴明の顔を見た瞬間に保憲の体に寒気が襲った。
・・・笑っている・・・・
理不尽な暴力を受けて唇が切れたのかツッ・・・と流れる血を袖で拭きながら口角がグイッと上がりニッと笑ったのである
・・・哀れみなんか・・・・
保憲に向かって真直ぐ向けられた晴明の視線がそう語っていた。
「せっ晴明。」 
フラッと傾く晴明の身体を抱き止めようとした保憲の手を強く弾くと揺らめきながら晴明はその場を去って行った。

・・・あれは・・・尋常ではない・・・




秋の気配が増した。 木々の葉は色づき始め空が高く感じられる。
人気の無い沼の水面に舞い散った色鮮やかな葉が浮かんでいた。
朽ち果てそうな古木に巻きついた蔓も秋を纏い始めて揺れている。

「茜様・・・」
呼ばれた女人は駆けて飛び込んできた童をしっかりと胸に抱きとめた。
「あぁ・・このように震えて・・・哀しいのですね。」
「茜様・・」 見上げてくる童の視線を受けながら女人は美豆良に結われた童の髪を優しく撫でた。
「辛い事も哀しい事も皆ここで流してお行きなさい。 その涙はここにおいて行きなさい。」
女人は優しい声で言うと童の瞳から流れる涙を唇でそっと吸い取って行く。
「あなたにとって住みにくい世なのですね。」
女人の声に細く頼りなげな童の腕が遠慮がちに伸ばされて女人の頸に絡まった。

「私と共にここへ留まりますか?」 
「ここへ・・・茜様と一緒に?」 少し舌足らずの言葉で問い返すと童は縋るような視線を女人に向けた。
何度もこの場所へやって来ていた童ではあったがこうして問いかけられたのは初めてである。
「ずっとここに居ても良いのですか?」 おずおずと童は問いかけた。
「あなたがそれを望むのなら・・・何時までもこうして私と共に。」 女人は優しく微笑みかけて応える。
童はポッと頬を染めながら頭を女人の胸元に押し付けた。
「留まりますか?」 女人が再び問いかける。
童はそっと女人を見上げる。 その瞳が揺れていた。


「いい加減になさいませ。」 凛とした声が響いた。
茜は驚いたように声の方へ顔を向けた。
その腕の中の童の肩が跳ねる。

髪を緩く束ねた童が一人・・じっと二人を見ていた。
「あなたが・・・そのような者にまで手を出したりなさるから・・・」
声を掛けた童の背後から何人かの影が大きくなってくる。

「晴明! どうしてここにいるのだ?」 童の姿を眼に入ったのか影の一人が驚いたように声を上げた。

晴明と呼ばれた童は応える気配もなく茜とその腕の中の童だけを見据えている。
「保憲様。 手出しは無用に願います。」
顔も向けずに冷たく言い放つと言葉を継いだ。

「茜様 あなたを忘れた訳では有りません。 けれど・・・あなたは私を見てはいなかった。」
長い睫が伏せられ頬に翳りを作る。
「殿上の者までそのように呼ぶから騒動になるのです。 下人の者だけなら誰も騒ぐ事など無かった・・・」
晴明の視線が美豆良の童に向けられ手荒くその手を掴むと引き寄せた。
「わっ私はここに留まる・・・」 童は晴明の手を振り解こうと暴れた。
「あれは・・人ではありません。」 じっと童の目を見据えて晴明は言った。
「あなた様が戻らなければ騒ぎは大きくなるばかり・・・聞き分けなさいませ。」
童の手を強く掴んだままに保憲に手渡す。
「さぁ 保憲様。 お探しの童はこの方なのでしょう?早々に親元へお届け下さい。」
いきなり話が振られて驚きながらも保憲は渡された童の顔を見た。

「晴明・・・確かにこのお方を探していたが・・それだけでは最早 話は終わらぬ。 寮へ勅が下っている。」
保憲の声に晴明は大きく溜息をついた。
「其方は借りが有ります故に・・・私が滅します。 そのお方と共にお引きとり下さい。」
晴明の言い方に妥協の余地無しと判断して保憲は一度退く事にした。
・・・こういう物の言い方をする時の晴明は本当に頑固だ・・・
保憲は気づかれぬように苦笑いを浮かべた。

・・・さて。 茜様 ・・・・
童を連れて去って行く影を眼で確認した後 晴明はゆっくりと視線を茜に向けた。

「晴明と言うのですね。美しい童・・・疾くこの腕の中へ・・・」 茜が両手を広げた。
風に揺れて袂がふわっと舞い上がる。
「茜様・・・」 晴明の足がゆっくりと茜に向かった。
「私を・・私だけを見ていれば良かったのに・・」 ツッ・・・・と頬を涙が流れ落ちる。
「辛いのでございましょう?哀しいのでございましょう? さぁ この腕の中で心のままに。」
茜の穏やかな声に堪えきれずに晴明は駆け出した。
「さぁ お出でなさい。この腕の中へ」  茜の視線が晴明を捉えた。
幾重にも重なっている落ち葉の前で晴明は足を止めて茜を見つめる。

「この落ち葉の褥の下に幾つの骸が埋まっているのでしょうか。」 晴明の声が僅かに震えを帯びている。
「あなたも哀しかったのでございましょう?茜様。」
声と共に晴明の身体が茜の袖で覆われた。 晴明の膝が崩れ落ち葉の中に座り込む形になった。


・・・・・まだ都が出来ぬころから私はここに居りました。
あちこち小さな窪地に水が残っていて・・・・人々は慎ましく暮らしていたのです。
私の家族・縁者・・・みな大事にされて日々の生活に使われていたのです。
それが喜びでも有ったのに・・・・都が出来ました。
そして・・・残ったのはこの小さな池と私だけ・・・・
この身も朽ちております。 いつ崩れ落ちても不思議はありません。・・・・

「茜様 あなたは悲しみの涙を糧にして今日まで留まっていたのですね。」
晴明の白い指がそっと茜の頬を滑る。
「都は繁栄しておりました。哀しむ者などいないと思っていましたが悲しみに暮れる者はたくさん・・・それはたくさんいました。」
「この私もその中の一人だと仰る?」
「その涙が哀しみでは無いとあなたは言うのですか?」
茜の視線が晴明に真直ぐ向けられた。
「涙が涸れるまで・・・そして・・・落ち葉の中・・・そんな事をあなたが為さるなど・・信じたくはありません。」
それでも・・・と晴明は言葉を続ける。
「最早 見逃すことは出来ない状態になりました。私が滅せずとも他の者がやって来るでしょう。」
晴明は左手で茜の背を抱き右手で印を結んだ。
「他の者の手には掛けさせません。滅せねば成らないのなら・・この手で・・・せめて・・」
「共に消えようと言うのですか? それはなりません。」
茜が身を捩って晴明から離れようとするのだが左手の力は童とは思えないほど強く二人はピッタリと身体をあわせたまま動かなかった。
「茜様。 私はこの世に未練は無いのです。」
晴明は茜を見上げたまま静かに呪を唱え始めた。


「させられぬなぁ。」 
男の声と共に印を結んでいた晴明の手首にしゅるり・・・何かが巻きつき茜から引き離された。
勢いよく大地に縫い付けられ見上げた晴明の瞳に映ったのは己より年上の大人の男の姿であった。
見つめ返してくる視線は怜悧な光を発してる。
「誰?・・」 今の今まで気配も無かった筈・・・
晴明を大地に押さえつけているのは男の手ではなく緑色の太い蔓であった。
「おまえも・・・人ではないな。」 晴明は睨み返す。
・・そうよ・・この茜と同じ妖物よ・・・・
男が嘲るように笑った。
「あまえが逝くのは勝手だ。しかし・・・茜を滅すると言うのは許せん。」 男が言い放つ。
「私が滅せずとも他の者が必ず滅する事になります。違いは早いか遅いか・・・それだけです。」
「俺の事はお前も気がつかなかったであろう?誰が来ても此度のように邪魔をしてやろうさ。」
「なぜ? 茜様が愛おしい訳では無いのでございましょう?」
「愛等と言う当てにならぬ物は微塵も持ってはおらぬ・・・俺に必要だから滅させる訳には行かないのさ。 俺には支えが必要なのだ。 樹木に巻きつき養分だけは己で取り込む。」
「茜様は・・・もう朽ちております。」
「解っておるさ。 しかしおまええのように涙を捨てに来る者は後を断たん。 その涙で茜は今日まで留まっていた。 足りないときには・・・」
男の視線が幾重にも重なっている枯葉に向けられた。
「あっ!!。」 晴明は眉を顰めて声を上げた。
「ようよう解ったか。 人の身体は水よ。」  男の声は限りなく冷酷であった。
「あの下にある骸は・・・・」
「おまえの考えた通りよ。 おまえが逝くと言うのなら一滴残らず頂く事も出来る。」
「私は・・私は茜様を滅して共に・・・。」
叫んだ晴明の口の中に しゅるり・・・蔓が入り込んでくる。
晴明は蔓を思い切り噛んだ。 ブチッと音がして噛み切った感触が何とも気味が悪い。
「一人で逝く訳には参りませぬ。」
蔓にも痛みが有るのか解らぬがズズッと蔓が後ず去って押さえられていた手首が自由になった。
バッと立ち上がった晴明は蔓の手を持つ男を正面から睨んだ。
「あなたも一緒に滅します。」 晴明は視線を男に向けたまま茜の方へと近づいた。
長い睫が伏せられた。 ・・・・封印邪気・・・・穏やかな声が響く。
瞳がカッと見開かれ・・・「破邪!」 叫ぶと共に晴明は茜の胸へ飛び込んだ。
茜の腕が晴明に触れたと思われる瞬間に晴明が叫ぶ。
「滅!!」 
碧の蔓が粉々に舞い散って青白い炎を上げて消え去って行くのを晴明は眼の端に捉えながら叫ぶ。
「爆!!」 少しだけ切ない声であった。

ドドドドゥ・・・・・地響きと共に古木が崩れ落ちて行く。
すぐ傍の池に古木は水面にその身を打ち付け微塵となってゆっくりと沈み始める。
我が身も水に沈む・・・晴明がそう思った時・・トンッ・・・胸を押す優しい感触。
しっかりと抱いていた筈の己の手が古木から離れて行く。

「茜様・・・な・・ぜ・・・」

揺らめく意識の中でふわっと身体が水面に浮き上がった事を感じていた。


・・・私には・・・逝く望みも持つ事は許されないのですか・・・・茜様・・なぜ・・・

池は波も無くなり穏かに夕日を受けて茜色に染まっているだけで応える者もなく・・
響くのは幼い晴明の慟哭だけであった。



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