喰らいたい 喰らいたい
闇の中で呻くように声が響く
・・・喰らいたいのだ・・・
ズルッと袷の裾を引きずるような音がする

喰らわねばならぬ 喰らいたいのだ
血肉を喰らってこの身を・・
喰らわせろ 喰らわせろ

ズルッと声の主が動く
漆黒の闇の中 ズルッズルッ・・・

あぁ・・・・
深い哀しみを佩びた慟哭が辺りを支配した。

陽が昇る前・・陰の気から陽の気へと移り変わる時刻であった。



「保憲・・目覚めているか?」
忠行の声が保憲の意識の中に響いた。
「はい 目覚めておりますが・・・。」
賀茂の屋敷はまだ漆黒の闇の中である。
「でかける用意をいたせ。疾く到っする必要があるようだ。」
「父上 陰態をまいりますか?」
「おぅ!直ぐにでも出るぞ。」
忠行・保憲の二人が向かったのは北の外れのあの邸。


「あれは?」
保憲は忠行に顔を向ける。
二人は邸の庭を横切ろうとしている霧の塊を見ていた。
蠢くその黒い霧らしき物に気が付かれぬように二人は気配を消している。
「解らぬ。妖しのようでもあり・・鬼とも言えぬな。」
二人がじっと見つめている先を物を引きずるような音を立てて進んでいる。
・・・あと少し待てば陽が昇る。・・・と保憲
この邸が唯の通り道であったのなら良いのだが・・と忠行。

ズルッ ズルッ・・・形を少しずつ変えて霧の塊は動いている。


ふらぁっと邸の奥から現れた影が一つ・・・
「むっ!蛍か・」忠行は影を認めて呟く。
「あれは蛍と言うのか。」保憲は濡縁近くで立ち止まった女人を確認した。
何かしらの気を感じて起きてきたのではない事はその無防備な状態から一目瞭然であった。
「だれだぁ?」女人が眠たそうに目を擦りながら声を上げる。
「まずいな。」
忠行が小さく呟きながら視線を霧の塊に定める。
ズルッと移動していた霧の塊はふっと歩みを止めて蛍と呼ばれた女人に向かって方向を替えたように見える。
霧の塊が蛍に近づいて行く。

ズルッズルッ・・・

「逃げよ!蛍。」保憲が声を上げて濡縁へと走り出した。
「あ~ん?」
 眠気の溶けない蛍は保憲の声に緩慢な返事を返した。
その瞬間 霧の塊がバッと音を立てて大きく膨らみ蛍に襲い掛かる。

・・・肉だ・・・血肉を喰らわせろ・・・

「馬鹿!名を呼ぶでない!。」忠行の叫びは間に合わなかった。
一瞬にして蛍の身は巨大な霧に包まれて見えなくなる。

「斬!」 「断!」
忠行と保憲の呪が飛ぶ・・・
何とも気味の悪い叫び声が辺りに響き巨大な霧が仰け反るように見えたがその端はまだ蛍と繋がっている。
「この!!」
保憲は身軽く濡縁に飛び上がると蛍に繋がっている部分に新たな呪を討ち込んだ。
しかし・・強い想いがあるのか霧は蛍を離そうとはしない・・・
焦りを感じながら保憲は忠行に視線を送った。
その時・・明るい光が濡縁にかかる・・・陽が昇ったのである。
「朝だ。」忠行が言う。

・・・口惜しや もう少しのところを・・・

霧の塊は次第に薄くなっていく姿の中で悲愴な声をあげた。
やがてその姿が消えていくのを忠行と保憲は見送るしかなかったのである。


「蛍。」
呼んでも目を開かない事に保憲は慌てた。
忠行の表情も険しい。
「すぐに屋敷へ連れて戻りましょう。」
保憲が忠行を急かす。
忠行が静かに首を振った。
「保憲・・・気が付かぬか?」
忠行の声に戸惑いの響が浮かんでいる。
「は?」
「時が・・・時が止まっている。」
忠行の声に辺りを見回す保憲。
確かに風は吹き抜け陽は次第に高くなっている筈なのだがこの邸のこの場所だけが夜明け前の薄暗さに包まれている。


それから幾度の朝を迎え幾度の夜が過ぎた事であろうか。
季節はやがて冬の気配が感じられるようになり都に風花が舞うようになっても蛍が目覚める事は無く時が動くことも無かったのである。

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