「保憲様。」

懐かしい声を聞いたような気がして保憲は閉じていた瞳を開いた。
五十の歳を越えた保憲は病に臥せっていた。
優れた呪力を持つ身の代わりに寿命は案外と短いのかも知れぬ。
己の命数が間もなく終わる事を保憲は感じていた。

「保憲様。」
聞き慣れた声と共に己の手に触れている柔らかな肌を感じて 保憲は視線を動かした。
見慣れた顔が心配そうな表情でそこにある。
「晴明・・・」
「はい。」
呼ばれて柔らかな肌の持ち主である男は名を呼ばれてにっこりと笑みを浮かべた。
「ずっとここへ居たのか。」
「保憲様の元を離れる事などありませぬ。」
穏やかな声が囁くようで保憲の耳を心地よく擽る。
「おまえは・・・いつまでも変わらぬな。」
「何をおっしゃいますやら。 この晴明も初老を遥か昔に過ぎましてございますよ。」
「いや・・それでも。」
保憲は己の手に触れている晴明の指をそっと捉えた。
「夢を見ていたようだ。」 保憲は息を吐くように言う。
「夢でございますか?どのような夢でございましょう。」
ふっ・・・僅かに保憲の口角が上がった。 笑みなのであろう。
「教えてやらぬ。」 「保憲様。」
晴明は保憲の手を僅かばかり強く握った。
「楽しい夢なのでございますか?」
「あぁ・・何より楽しい夢であった。」
「それならば宜しゅうございます。大切になさいませ。」
晴明は穏やかに言うと掛衣を保憲の肩口まで掛けなおした。
「なんだ。聞きとうは無いのか。」
保憲は詰まらなそうに訊ねた。
「お話くださいませんのでしょう?」
晴明が口元に笑みを浮かべたままで応えた。
「まったく・・・お前は変わらぬ。」
言うと語り疲れたのか保憲は目を閉じて大きく息を吐いた。
「ずっとここに居りますゆえ・・・少しお休みなさいませ。」
ほん・・と保憲の掌を敲くと口を閉じた。


「保憲様。 やすのり様。」
声変わり前の少し擦れた声が己を呼ぶ。
「ほれ!そのように慌てると怪我をするぞ。」
名を呼ぶ方へ視線を返し応えるはまだ髪をあげる前の己の姿。
名を呼びながら追いすがって来るのは振り分け髪の幼い晴明であった。

・・・これは夢なのだ ・・・・

判っていても心は春の野を駆け巡る。
「保憲様。」
グイッと袂を捉れて気がつけば幼い晴明がじっと見上げている。
上気した頬が薄桃色に染まり両の瞳が煌く。
ほんに愛ゆい。 保憲は目を細めて晴明を抱き上げた。
嬉しそうに声を上げて笑う晴明の黒髪が陽を受けてさんざめく。

・・・あぁ いつまでもこの様な時を過ごしたいものよ ・・・

保憲は心からそう思ったのだが変わらぬ物などこの世にはあるはずも無く其々が夫々の立場を得ると共にその在りようも変化して行った。

「保憲様。 保憲様。」

・・あぁ また晴明の声が聞こえる。・・・・

「保憲様。」

・・・声が遠いな ・・・・

「保憲様。」

・・・もうこの声を聞くことも叶わぬか ・・・・

賀茂保憲が現の世に決別をしたのは京の町に桜が舞い散るころの事であった。


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