「まるで虎に翼をつけて野に放ったような物ぞ。」

帝に寄り添い都を護るべき役人達は不安そうに囁きあった。
その帝は明日をも知れない病にある。


「まったく・・・・そう簡単に殺されてたまるものか。」
髪を削いだだけの身なりで男が吉野へと続く道を歩む。
近津の宮から懐かしい飛鳥の風景を辿り紅葉し始めた木々の葉が美しい。
「まったく・・・兄上は誰かに背を押してもらわねば決断も出来ぬに・・・」
男は尚も独り言ちながら山の細道を歩いていた。
その男を見送るしかなかった宮の中では病の為か時折息が途切れる帝の傍らでうっすらと笑みを刻んだ若い男がそっと帝に告げた。


「ようございます。葛城帝。 私の父の思いもございますれば・・・・必ず帝の皇子を皇位に。」 男はゆるりと言葉を吐いた。
「真か? 海人に皇位を渡さなくても良いのだな。」 帝は細くなった両の手で男の掌を包んだ。
「あのお方は御仏に仕えると申してここを出られた身でございます。」
「たしかに・・・髪も削いだ。」 
「この私に暫し時を下さいませ。 歳は行っておりませぬが大織冠を賜った者の息子にございます。」

葛城帝は知識に溢れ何事にも俊敏ではあったが常に誰かに寄り添ってもらわねば心細く決断力も発揮できないひ弱な一面があった。
今 頼りとしていた者に先立たれれば何も彼が疑心暗鬼に囚われる。
己の心の中にあるのは我が子の事のみと言う状態になったのは何も病の為だけではあるまい。

「さて・・・」 帝の傍らを離れた男は不敵な笑みを浮かべて髪を削った男の去った空を見詰めた。


「まったく・・・・」 山の中を進む男 海人は相変わらず独り言ちながら歩を進めていが
ガシッ!!
強い力で手首を掴まれて我に返った。
「誰ぞ!!」 海人は掴まれた手を振りほどこうと己の側へと手を引いたつもりであったが反対に掴んだ腕の持ち主に引き寄せられて蹌踉めいた。
海人の目の前には涼しげな瞳の若者が立っていた。
「大変に危のうございます。」
言葉とは裏腹にその口元には笑みが刻まれていた。
海人は言葉を発した艶やかな唇に魅せられ切れ長の目を縁取る長い睫毛に心躍らせた。
「何を申しておるのだ?」 言葉の意味と表情のあまりの違いに海人の脳は混乱する。
「お命が惜しければ疾くこの中へ・・・」
若者は海人の腕を放さずそのまま大きな洞の中へと誘った。
入り口には歳を経たであろう木々の枝が根を張って塞いでいるがその隙間を縫うように若者は海人の手を引いて洞の奥へと歩を進める。
「この辺りで宜しいでしょう。暫く お声を出しませぬように。」
若者は告げると今入ってきた方に身体を向けると海人の手を放し、もう一方の手をそっと広げると誰に囁くか
「すまぬな。少しだけ働いておくれ。」 穏やかな声であった。

かさ かさ かささ・・・かさ
聞えぬほどの音がして銀色に煌くものが木々の葉に飛んだように見えた。
「さて・・・」 若者が振り向いて海人を見詰める。
「暫くのご辛抱でございます。 私が良いと申しますまでお声を出しませんように。」
こくり・・・海人は縦に首を振ると繁々と若者の貌を見詰めた。
物問いたげな海人に視線を向けて くすりと笑う若者は人差し指を海人の唇の前に立てて囁く。
「お話は後でお聞きしますよ。」


何処からか足音が近づいてくる。  一人ではない。
バキッ バシッ がさり
あちこちに飛び出している枝を折る音。 葉を掃う音。 地に落ちている枯葉を踏む音 ・・・・・
恐ろしいほどの速さで近づいてくる。 二人・・・・。 三人ほどであろうか。 海人は心の中で足音を数える。
洞の前を行き過ぎたかに思えた足音が再び戻ってきた。
海人は反射的に首を竦める。 肩に暖かな物を感じて見上げれば若者の掌がそっとのせられていた。

「おい! あの皇子は随分と足が速いではないか。我らが追いつけぬ筈は無いのだが。」
翳し手をして先を見ながら一人の男の声がする。 なかなかに逞しい体躯をしており弓を持ち矢を背負っていた。
「おぅ! 見よ。この大きな洞にでも身を隠しているのではないか。」 少し若い声が応じている。
「いやいや ここにはおるまいよ。」 三人目の声が海人の耳に聞えてきた。
「何故そう言えるのだ?」 弓を持った男の声が尋ねた。
「このように木が茂りそこに蜘蛛が見事に糸を張り大きな巣を作っておるではないか。中に入るには糸を切らねばならぬ。」
「成程のう。 一度壊された巣を張り直すほどの時は無かったと言いたいのだな。」
「そう言う事よ。皇子は存外に足が速いのかも知れぬ。先へ進もう。」
「おぅ!!」 「あぁ 人里に出られては面倒になる。」

バシッバシッ・・・・三人の足が枯葉を踏み拉きながら少しずつ遠ざかって行く。
海人の耳には足音が聞えなくなり静けさが戻ってきたが若者はじっと動かず洞の入り口に視線を定めている。
やがて・・・空を鳥が舞っているのか甲高い鳴声が海人の耳に届いた。


「すまなかったね。」 若者の声に海人は地に落としていた視線を上げた。
見やれば若者の指先にきらきら・・・銀色に輝く糸を引いて数匹の蜘蛛が戯れている。
「少しお休み。疲れただろう。」 若者が言うと蜘蛛は名残惜しそうに
そそそ・・・・そっそっ
木々に張った巣の中へと戻って行った。
「さて・・・お待たせいたしました。何なりとお話ください。」
若者は海人へ身体を向けると傍らの石に腰を下ろした。
「あぁ 済まぬ。 その・・なんだ。 何から尋ねて良いのやら。」
海人は右手で後頭部で少なくなっている髪を撫で付けながら口篭った。
「そうだ!!名だ。 まずは名をお尋ねしたい。」 パッと視線を上げると海人は若者をじっと見詰めた。
ふ・・・ 花の様に微笑むと若者の口が開いた。
「さて?この私の名でございますか。あなた様とは座を並べる事など出来ぬ身でございますが。」
「いや 例えどのように卑賤の者であろうとも我が命を救うてくれた。 違うか?」
海人は思わず腰を上げて若者の貌を覗き込んだ。
「朧・・・おぼろと言うことに致しましょうか。」 
「朧か・・何とのう儚げで良ぅ似合う。しかし・・・先ほど我が腕を掴んだ時の強さはとても朧とは思えぬ。」
海人は言いながら掴まれた手首を摩った。
「申し訳ないことを致しました。追うて来る者の足があまりに疾く思えましたので・・」
「まぁ そのおかげでこうしてゆるりと話も出来る訳であるが・・」
二人は顔を見合わせて声を上げて笑った。

「あの者たちは危のうございます。 吉野へ参られるのであればご用心召されよ。」
朧が真顔で忠告をする。
「無駄に死ぬわけには行かぬ。我にはやり遂げねば成らぬことがある。」
「解っております。」 朧が深々と頭を垂れた。
「世話になった。 朧殿は不思議なお方だ。このまま別れるのは何とのう辛い。またお会いできる事もあろうか。」
海人の言葉に朧は僅かばかりの笑みを片頬に刻んだ。
「そのような縁がございますればお目にかかる事もあろうかと・・・」
「そうか では会える事を楽しみにしよう。」
海人は立ち上がって洞の入り口に足を向けた。
「一つ・・・」 朧の声に海人は振り返る。
「なにか?」
「悪しき種は芽を出しておりまする。蔓を広げる前に根を絶たねばなりませぬ。」
ふむ・・・海人は思い当たる事があるのか瞳を宙に揺らめかせた後に朧をしっかりと見詰めた。
「忘れぬように致そう。」
「なにとぞ・・・」
朧の声を背に海人は洞の外へ出ると葉の影でじっと動かぬ蜘蛛にそっと指を寄せた。
「難儀な事をやらせてしまったな。お前たちのおかげで助かった。礼を言う。」
眉間に寄っていた皺を伸ばして海人は朗らかな笑みを蜘蛛に投げると振り返る事も無く足早に立ち去って行った。

・・・・ さても稀有なお方よのう ・・・・
小さくなって行く後姿に視線を送りながら朧は独り呟いた。



                以降(後)に続く





 






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