「口惜しやなぁ。一齢足りぬわ。」

馴染んだ声を耳にして信長は笑みを刻んだ。

閉じられた襖の向こうはまるで異世界のように騒々しい。
遥かと言うほどには遠くなかったが荒々しい声が先ほどより小さくなったように感じられるのは己の気のせいなのだろうか。
声の者達が探しているのが己だと言うことを信長は知っていた。
何しろ辺りが明るくなる前に鬨の声が上がったのだ。
側近に仕える蘭丸の急ぐ足音。
光秀の謀反の知らせ。
濃藍の空を欺く松明の揺れる灯。
それらを信長は面を洗った場所で見聞きした。
「是非もない。」
誰に言うともなく信長は呟いた。
所詮あいつは過去に繋がれた人間であると信長は思う。
人の一生などは瞬き一つの短いもの。心躍る瞬間にどれほど出会えるかが面白いのではないか。
「まぁ そう言った意味では此度の光秀なかなかに面白い事をしてくれたのではあるな。」
襖に視線を向けたまま背後の気配に呼びかけてみる。
それに応えるように僅かな笑い声が耳に入った。
「ほんに・・・うつけのする事は・・・あと一齢大人しゅうして居らば良いものを。」
低く耳障りの良い声が言う。
「影朗であろう?相変わらずの事であるな。」
肩越しに視線を背後に向けた信長の瞳に色白の若者の姿が映った。
じっと見下ろしてくる若者の瞳が些か剣呑な色を帯びている。
「信長 私の言うた事を覚えてはおらなんだか。」
若者は立ったまま見下ろして冷たく言い放った。
「あぁ京の都へは長滞在してはならぬ。他に居を構えよ。であったな。」
ふん!
若者は鼻を鳴らしてじろりと信長を見据えた。
「覚えておってこの有り様か。ほんに・・・」
「成ってしもうた事は取り返せぬ。おまえらしくも無い言いようであるな。」
ならば・・・
若者は信長の傍らに膝をついた。
「逃げまするか?時には退くことも必要ではありませぬか。望と有れば私が手伝いましょうほどに。申してみてはいかが。」
膝をつくと若者より信長のほうが視線が高い。
逆に信長が若者を見下ろした。
「逃げぬよ影朗。面白いものも見せてもらっておる。」

「左様でございますか。」
何処と無く楽しそうな笑みが若者の口の端に刻まれた。
「この世の見納めがおまえで良かったと思うておる。」
互いに視線を絡ませて声も出さずに笑った。
「しかし・・だ。」
信長が珍しく言い澱んだ。
フィッと若者の眼が細められる。
「一つ・・・・一つ望を言うても良いか?」
信長の言い様に今度こそ声を上げて若者は笑った。
「らしくございませぬな。それ程に難しい望みでございまするか。」
華奢な肩が小さく震えているのは笑いを堪えているのだろうか。
それでも笑う声がその口元から漏れてくるのを信長は呆れたように見下ろした。
「なに・・・それほどの事でもないと思うが・・・どうであろうか。」
「時がございませぬよ。声になさらなければ私にも解りませぬ。」
真っ直ぐに見返してきた瞳の中に己の姿が映っているのを見ながら信長は意を決したように口を開いた。
「おまえの唇に触れたい。」
言われて若者の目が大きく見開かれた。 スィッ・・と息を呑む気配。
ワハハハ・・・
信長は愉快そうに声をあげた。
「面白い物を見せて貰った。どうだ?俺の望みは叶わぬか?」
「そのような事に念を押すものではないぞ。」
左の掌をひらひらと振りながら若者は応える。
「されば・・・」
若者は悪戯を思いついたように信長を見返すと己にも望みがあると言う。
其れは何かとと信長も口の端をあげて微笑む。
「その首を頂とうございます。」
なんの衒いも無く若者が応えた。
「おまえに必要なものでもあるまいに・・。」
信長が首を傾げれば若者は益々悪戯を企む幼童のような笑みを浮かべる。
「あの茄子顔の男に渡したくないだけよ。それに・・・・」
「それに?」
「人には解けぬ不思議を残すのお面白いかと思いましてな。」
「俺は訳のわからぬ物は信じぬぞ。」
「先の世に逝ってしまわれる者の許しなど何の価値がありまするか。」
おぅ!!
信長は改めて今の自分が置かれている場に気がついたようである。
「俺もこの首を残したくは無いと思えるようになった気がする。」
「左様でありましょう?」
二人は互いの瞳を覗き込んで笑った。

「この首 確かに信長の物と解らなくなるのだな。」
「はい どなたも絶対にわかりませぬ。」
若者は自信たっぷりに頷いた。
「首が見つからねば・・・焦るであろうなぁ。」
「謀反の勝利者にはなれませぬよ。」
「それは面白い事ぞ。」
「その上・・・数多の方々が右往左往と・・・」
「益々面白いではないか。そのように計らえ。」
「仰せのままに。」
若者が信長の前に頭を垂れて礼をとった。

「この大刀をやる。使えるであろう?」
信長は傍らに有った大刀を若者に手渡した。
「お任せ下さいませ。」 若者は不適に笑う。
「では・・・ゆるりと参ろうか。」
信長の手が若者の顎を上げた。
「信長様。」若者はそっと名を呼んだ。
「あの世の大王に会ったときに我が名をお伝え下さい。きっと善き計らいが有りましょう。」
「影朗と絆を交わしたと言うのか?」 信長は訝しげに問うた。
ふふ・・ 若者が苦笑う。
「ほんにうつけでございますなぁ。カゲロウはあなたでございますよ。」
「俺が?」
「カゲロウは陽炎・・・もしくは蜻蛉。下天と比ぶれば瞬き一つ・・・一齢足りぬは陽炎のようなものでありましょう。」
若者の声に信長は視線を遠くへ投げて越し方を省みて・・・小さく頷く。
「良ぅ解った。してお前をなんと呼べばよいのだ。」
「はるあきら・・・晴明と大王にお伝え下されば事は収まりましょう。」
「解った。では・・・はるあきら・」
「はい。」
信長の唇を迎え入れるべく晴明の睫毛が伏せられた。









以下続く




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