「おい・・おまえ何処か具合でも悪いのか?」
髪を後に束ねただけの童は膝をツイッと進めて目の前にいる幼子をじっと見つめた。
顔が触れそうなほど近くまで寄られて幼子は思わず腰を引いた。
黒曜石のように真っ黒な瞳が円く開かれて眉が僅かに顰められているのは言葉が揶揄ではなく心配している気持ちの表れだと言外に伝えている。

「血の流れが透けるようだぞ。具合が悪いのなら薬師を呼ぶが・・・」
童は右手を伸ばすと幼子の耳に掛かっている後れ毛を掻き揚げた。
幼子は坐したまま肯定も否定もせずに長い睫を伏せて俯いたままである。

「父様・・・・」 童は途惑ったように幼子の横に坐している男を見上げた。

父と呼ばれた男は賀茂忠行。
この屋敷の主である。 童は賀茂保憲。 忠行の嫡男でまだ十歳を越えたばかりであった。

「保憲・・・そう次々と訊ねても応え様がないと思うがな。」
忠行はうっすらと笑みを浮かべて諭すように言った。
しかし・・・と忠行は思う。
・・・・この幼子の声はまだ聞いた事が無い・・・・


それは三日ほど前の事であった。
忠行は召し出しが有り内裏へと出かけた。
そこで初めてこの幼子に出会ったのである。
都では見かけない装束を着け髪の結い方も都とは違っていた。
そもそも・・・男童なのか女童なのかも判別できないほどの愛らしい貌である。
「忠行・・」 御簾の奥から声がかかった。
平伏する忠行に告げられたのは思いも寄らぬ話であった。
「ここにいる幼子を賀茂の家で育てよ。」 御簾の奥の声は言った。
「養育を賀茂の家で・・・と言う事は陰陽師に育てよと言う意味でございますか?」
忠行は頸を傾げて訊ねた。
賀茂の家は数多くの陰陽師を排出している家柄である。
今も色々な環境の家から賀茂の家の門を叩く者は多い。
しかしこればかりは誰でもが成れると言う事ではない。
やはり向き不向きがあるのだ。

「陰陽師にせよと言う事ではない。 その方が良いと思うようにせよ。」
「それでは・・・何故に我が賀茂家にお預けになられるのでございましょうか?」
忠行の問いに御簾の奥の声が少し笑ったように思えた。
「寺稚児にする訳にもいかぬ。 命を奪うわけにも行かぬ。・・・察せよ。忠行。」
「御意。」 忠行は深く頭を下げた。
「言うまでもない事だとは思うが・・・」 御簾の奥の声が継ぐ。
「車の供でも屋敷の雑用でも構わぬが行方知れずにはしてはならぬ。それと・・・沙汰があるまでこの世から消す事もならぬ。」

このような一厘の情けも無い会話の間 幼子は一言も発せず表情を変えることも無くそこに坐しているままであった。


・・・・声が出ない病でも持って生まれたのであろうか・・・・
忠行は保憲の前でじっと坐している幼子を見つめた。


「父様・・この者の名は何と言うのですか?」 保憲の声に忠行はハッと我に返った。
「名・・か。」
一度も声を聞いていないのであるから勿論 名は知らない。
「童子と呼べ。」
「童子ですか?」保憲は不満そうである。
「おまえだって太郎保憲であろう。本来ならおまえだって太郎で良いのだ。」
忠行が揶揄するように言った。
「それはそうですが・・・」
「まぁ 慣れない場所にこうして一人でやって来たのだ。おまえとは歳も近い。暫く面倒を見てやってくれ。」
忠行の声に保憲は改めて幼子に視線を戻す。
己の話だと言う事は理解できる年齢だが・・・幼子の口は相変わらず開かない。

「病なのでは無いのですね。」 保憲は訊ねた。
「それは案じることは無い。」
「では・・・童子。」 保憲は幼子の手をとった。
「屋敷の中を案内しよう。父様。この童子の起居する間は決まっているのでしょう?」
「あぁ 東の対の奥に整えてある。」
「解りました。それではまずそこへ案内します。」
幼子は忠行に向かって僅かに頭を下げると保憲に手を引かれて東の対へと向かった。

・・・さて・・・・・・
忠行は先日の話を思い返す。

あの幼子は都の者ではないのは確かなこと・・・
寺稚児に出す事が出来ないとは如何なる出自の者なのだろうか・・・
丁寧に扱えと言う事も無さそうである。
殺める事もできぬようであるし・・・な。
何か面倒な曰くがあるのは確かではあるな・・・・・
・・・・結局 態のよい押し付けか・・・
忠行は一人苦笑いを浮かべた。

断ることが許されない身分関係がそこには厳然とある。
とにかく・・引き取ったばかりの事で何も解らぬのだから時をかけて解きほぐして行くしかあるまい・・・・
忠行は思考するのを止めて弟子達の待つ学習所へと戻って行った。



東の対の奥・・・
保憲は整えられている衣を手に取った。
白と見紛うばかりに淡い空色の水干が一式きちんとそろえられている。
「誰かあるか?」 保憲は声を掛けた。
「はい 太郎様。」 穏やかな声と共に家令が一人現れた。
「太郎と呼ぶなっといつも言っているではないか。」 保憲が不満げに言う。
「申し訳ございません。 つい・・・・。」
家令は然して悪びれる風でもなく膝をつく。
「この幼子の着替えをしてやってくれ。この装束では人目を引くばかりだ。」
己が生まれるより前から賀茂家に仕えている者である。いくら言っても太刀打ちは出来ない。
保憲は諦めて用向きを告げた。

幼子は僅かに身体を強張らせたようだが一言も発せずに家令の為すがままになっている。
・・・この幼子は本当に言葉が不自由なのであろうか・・・
着替えをしている幼子を見つめながら保憲は考える。
・・・・父様があのように言葉を濁すことは滅多にない・・・・・
「保憲様。 お着替えが済みました。」
保憲が思考している間にも着替えは進み家令の声がした。
「世話をかけたな。 ところで髪も結ってはくれぬか。」
再び家令は幼子に近づくと髪を梳き頸の後ろで緩く束ねて結い上げた。
「これで宜しゅうございますか?」
「あぁ すまなかった。これで大丈夫だ。」
家令は軽く頭を下げた後その場を立ち去って行った。


幼子は相変わらず表情も変えず庭に視線を向けていた。
何処から飛んできたのか白い小鳥が枝に留まっている。
ふっと幼子の貌に表情が浮かんだ。
細い腕を袂から伸ばして小鳥に向かって差し伸べる。

・・・・・表情を動かすのを初めて見た・・・・
保憲は不思議な物でも見るような視線を幼子に向けた。

「ま・・・れ・・・な・・・」

愛おしむように小さな声が保憲の耳に届いた。
思わず辺りを見回したが保憲と幼子の他には人影は無い。

「おっおまえ 声が出るのか!」
保憲は幼子の肩を掴んで叫んだ。
その大きな声に怯えたのか幼子は瞳を見開いて保憲を見ている。
桜色の唇が微かに震えているが声を発することは無かった。


「父様!父様!!」
保憲は幼子をそこに置いたまま忠行の元へ駆けた。
渡廊に保憲の足音が響く。

「太郎か・・騒々しいぞ。」
忠行の声に抗議する事も無く保憲は言葉を紡ぐ。
「父様 あの幼子・・・童子は声が出せるのです。」
保憲の言葉に忠行は眉を顰めた。 
視線が遠くに投げられ応えに少しだけ間が空く。
やがてゆっくりと忠行は保憲の耳元にそっと近づくと小声で言った。
「あの歳の者にとっては堪えられぬ程の事があったのであろう。
まだ受け入れられぬままなのかも知れぬ。
今暫くは他の者には合わせぬ事にしようと考えている。 おまえもその心算で・・な。」

忠行の言葉に思わず表情を硬くして保憲はこくりと肯いた。








 
Sponsored link


This advertisement is displayed when there is no update for a certain period of time.
It will return to non-display when content update is done.
Also, it will always be hidden when becoming a premium user.