「わぁ!!その姿はどうした!」
晴明を出迎えた保憲は驚きの声を上げた。
「申し訳ありません 保憲様。少し寄り道をいたしまして」
晴明が自分の狩衣に目をやりながら申し訳なさそうに頭を下げた
狩衣の袖は片方は無くなっており小袖が見えている。
「どこをどの様に歩けばそのような姿になるというのだ。」
保憲は頭を振りながら晴明を見返す。
賀茂の屋敷の門前のことである。
「師匠様はいらっしゃるのでございましょうか。」
「いや 先程出かけたのだ。 急な用でな。参内している。
親王の一人になにやら事が起きたらしい。」
「さようでございますか。師匠様は相変わらずお忙しいのでございますね。」
「まぁな 親王の乗っていた牛車がどうしたとか言っていたのだが・・。」
保憲も詳しい話は聞いていないようだ。
「それでは また改めて参る事にいたしましょうか。」
晴明は軽く会釈をすると今来た道を戻ろうとした。
「まぁ待て 晴明。何か特別な用事がある訳でもなかろう。屋敷でゆるりと休んでいけば良いではないか。」
保憲としても久しぶりの再会である。
以前は生活を共にしていたのであるから妙に懐かしさを覚える。
「保憲様 ありがたく存じます。それでは暫し・・」
「おっ!!おい そのままで屋敷内に入るのは困るぞ 晴明。」
「は?」晴明は小首を傾げる。
「おい晴明 その袖の中のものは一体なんだ。そのようなものを屋敷内に入れる事はできないと言うのが解らないそなたでもあるまい。」
保憲に言われて思い出した。
袖の中には握り潰したままの呪符が収まっている。
「これは・・忘れておりました。申し訳ありません。」
晴明はいたずらを見つかった子供のような笑みを浮かべながら呪符を取り出した。
静かに左の掌に乗せるとニッと笑いながら右手でピシャッと叩く。
呪符は両の手の間から更々と崩れて晴明の足元に落ちた後ボッと青白い光を放ってその姿を消した。
「これで宜ろしゅうございますか。」晴明は保憲を見つめる。口元にはまだ笑みが残っている。
「晴明 本当にそなたは詰めが甘い。私が言わなければいつまででもその呪符を身につけている気だったのか。」
「申し訳ありません。完全に忘れておりました。」
「そなたの寄り道は何やら険呑であったようだな。
まぁ良い とにかく奥へ参ろう。」
保憲は晴明の方に手を置いて奥へと誘った。

それ程長い年月が経った訳でもないのに懐かしい濡縁である。
「そなたはいつもここで庭を見ていた。」と保憲
「はい 庭に来る物を待っておりました」と晴明。
保憲は屋敷で働く者に晴明の為にと新しい狩衣を持ってこさせた。
「晴明 いつまでのその姿ではこちらが困る。早々にこれに着替えよ。」
「保憲様 私はなにも気になりませぬが・・やはり都を歩くには都合が悪いものでございますか?」
「この屋敷内にいる間はどのような姿でも構わないがやはり都の中は色々とあるだろなぁ」っと幼子に言い聞かせるように保憲が答える。
「それでは・・今は烏帽子は要りませぬな。」
晴明はそう言うと烏帽子を外し纏めていた髪も解いた。
折からの風に靡く黒髪の香が保憲の鼻を擽った。
「晴明 そなたからはいつも神草の香がする。」

風が静かに吹き渡って行く。

「不思議なものだ。こうしていると晴明 そなたがこの屋敷へ来た頃の事を思い出す。」
保憲は晴明の髪に手を置いて語りだした。
視線は庭に向いたままである。
「随分と昔の事のように思います。」
晴明は保憲の手を退けるでもなく答える。
「私は・・いや俺は見たのだ。晴明がこの屋敷に来たあの時の姿を・・な。」
保憲は少し照れたように顔を振った。
沈黙が辺りを支配する・・
「あのころ・・俺は父に逆らった事が有るのだ。」
「師匠様にでございますか?」
「あぁ 困らせてやろうと生意気にも考えたのだよ晴明。」

高貴な身分の者達は十五の声を聞けばどこぞの姫との婚姻を気に掛けるようになる。
賀茂家は特別高貴でもないのだが特殊な家柄であるのは確かな事であった。
暦道・天文・漏刻・・職種が細かく分かれていた陰陽寮の垣根を越えて統合して行ったのは忠行である。
この位置を我が子保憲に継がせたいと忠行が考えたとしてもそれは致し方ないことである。
親心とはそう言うものだ。
保憲が十五歳を過ぎた頃に誰か好き女人を保憲にっと忠行が考えたのは親心半分・陰陽寮のこの位置を永遠に賀茂の血筋でと言う思いが半分と言う所であろうか。

「父に言われたのだよ。」保憲が言葉を続ける。
「誰か女人を娶れ・・とな。俺はまだその気も無かったのだが父はこの時ばかりは執念深くってな。」
ふっと苦笑いをする保憲。
「それは保憲様が賀茂の家を継ぐ大事なお方なのでございますから・・。」
晴明の視線も庭に向けられたままである。
庭の木々の間を心地よい風が吹き抜けている。
「そこでだ晴明。俺は一計を案じたのだ。まぁ子供の浅知恵だがな。とにかく父を困らせてみたかった。」
ー 保憲 どうやら反抗期だったようだ。 -

「父が好いた女人でもいないのか?と訊ねて来るので・・な。」
「はい」
「そなたの名前を言ったのよ。」
「なんと!私の名前をでございますか」
晴明の肩がピクッと跳ねる。
「あぁ 俺が桔晴が欲しいと言った時の父の顔をそなたにも見せたかった。」
笑い飛ばす保憲。
「いけないお方だ。」
晴明は片方の唇だけで笑みを返した。
「遠い昔の話でございますね。あの頃とは様々なものが随分と変わりました。」晴明は長い睫を伏せて言う。
「晴明」
保憲が晴明の顎に手を掛けて自分に向ける。
「そなたは今でも変わらぬままだ。何も変わっておらぬ。」
じっと見つめる保憲の瞳に笑いの影は無かった。
「またそのような戯言をおっしゃる・・。」少しだけ無言の時が過ぎた。
「保憲様。」
「なんだ?」
「困らせるお方がいらっしゃるのは幸せな事でございます。」
保憲は晴明の瞳の奥に哀しみの光を見て取った。
「すまん。そなたを哀しませるつもりは無かった。」
保憲の言葉に「昔の事でございます。」と返しながら浮かべた晴明の笑みに保憲は大きな不安に襲われるのを感じたのである。
ーこの儚げな身と測り知れないほどの能力と・・どうしようもない詰めの甘さ・・これが晴明に災いを呼び込む事にならなければ良いのだが・・ -

保憲の心の中を知ってか知らずか穏やかな笑みを浮かべて保憲を見上げている晴明であった。

その頃 宮中では忠行がかなり悪戦苦闘していた事をこの二人は知る由も無かった。
Sponsored link


This advertisement is displayed when there is no update for a certain period of time.
It will return to non-display when content update is done.
Also, it will always be hidden when becoming a premium user.