目の前に置かれた椀を晴明はじっと見つめていた。
「保憲様・・・」 物問いたげに見上げれば穏やかな笑みを浮かべた保憲がじっと見下ろしている。
「それは毒酒よ。」

廂の向こうの庭を初秋の風が吹く過ぎて行く。
夜も深けた闇の中にまだ色付かない椛の葉が小さく揺れている。
その音が二人の耳に聞こえてくるだけの静かな時であった。
じっと己を見上げている晴明の瞳に自分だけが映っている事を確認すると保憲はふっと表情を緩めた。

「毒と言ってもな。 死ぬる物ではない。」 保憲が穏やかに言葉を発した。
「では・・・・どのような酒なのでございますか?」 晴明は真意が解らぬと言う様に小首を傾げる。
「眠る薬と言えば良いか。痺れ薬等とは違ってただ眠るのだそうだ。」
「酒に酔って眠るのではないのでしょうか?」 晴明は問いながら視線を椀の中に向ける。
ははっ・・・・と保憲は声を上げて笑うと「そうではない」と応えた。
「唐の国が出来るより遥か昔のことであるがこの酒を飲ませて眠らせ治療をしたと伝わっているのだ。」
保憲は闇に包まれた庭へ視線を向けながら言葉を継ぐ。
「この都など影も形も無く南都さえも無かったころの事よ。」
ほぉっと晴明が息を吐いた。
「そのような昔に眠る酒が作られていたのでございますか。」
晴明は感心したように言いながら改めて椀の中を見つめれば暗紅色の液体がゆらゆらと揺れていた。
「それで?保憲様。 これをどうしようと仰るのでしょうか。」
訝しげな表情を浮かべながら晴明は保憲を見上げた。
「それを飲んでみよ・・と言う事だ。」 保憲は挨拶でもするかのように軽やかに言った。
「私が飲むのでございますか。 何故にでございましょう?」
「どれほどの時間を眠るのかが解らんのだ。」 
「それを私で確かめようと仰るのでございますね。」 
「いやか?」 保憲は心外そうに目を見開いて問う。
・・・いいえ ・・・ 晴明は睫毛を伏せて首を横に振る。
「ただ。」 晴明は視線を保憲にしっかりと向けて言葉を継いだ。
「今で無ければなりませぬか?」
「どうした?何か不都合でもあるのか。」 保憲の笑みが深くなる。
「夜が明けましたなら私は髪を切ります。 師匠様の手で髪を結い上げねばなりません。」
「解っておる。」 保憲はすべて承知といった風に晴明を見返した。

晴明が賀茂の家にやって来てから幾度も季節は姿を変えて巡った。
幼い童子であった晴明も髪を上げ大人になる日がやってくるのは自然の流れである。
晴明も今や保憲が初冠を行なった時の年齢を幾つも超えたにも関わらず相変わらず童形のままに過ごして来たのだ。
身長も伸び保憲と大差はなくなっている。
それでも保憲は晴明と共に居る心地良さに父である忠行の再三の話にも耳を貸さず晴明の髪上げは遅れに遅れていたのであった。
特に高貴な身分でもない為どこから苦情が出るという訳でもないがやはり適当なときを見て髪を上げさせて陰陽寮に出せねばならぬのは保憲も理解していた。
保憲が忠行の説得に不承不承ながらも納得し忠行が日取りを占じて決められたのがこの日であったのだ。

「安心せよ。 陽が昇っても目覚めぬようなら目覚めるように手筈はある。」
保憲は晴明の不安を拭うように穏やかな声で言うと懐から小さな瓶子を取り出した。
「これは・・な。」 保憲が晴明の瞳を覗き込む。
「眠りに落ちている者を目覚めさせる酒よ。」
「それも遠つ国から来た物でございますか。」 晴明が呆れたように保憲を見上げた。
「ふむ・・・神水と呼んでいるようだ。 これを飲ませれば眠りについている者もたちどころに覚醒すると言われておる。
だから晴明が案じる事は何も無い。」
保憲の説明に納得したのか軽く肯くと晴明の右手が目の前の椀に伸びると迷う素振も見せずに一気に椀の中にある暗紅色の液体を飲み干した。
飲み干した椀を目の前に置くと何かを確かめるように何度か瞬きを繰り返し 「や・・保憲様。」 
甘い響きを乗せて晴明が名を呼んだ。
「おまえが目覚めるまで俺はここにいるさ。」 保憲はそっと晴明の髪に手をやると晴明の身体を静かに衾に横たえた。
やがて長い睫毛が何度か震え やがてしっかりと伏せられると穏やかな寝息が保憲の耳を擽る。

ふふ・・・っと保憲はその寝顔を眺めながら片頬に笑みを浮かべた。
「使わぬよ。晴明。 神水など使うものか。 お前が自然に目覚めるまで俺はここで待つだけよ。」
保憲は愛おしそうに晴明の髪を指で梳きながら穏やかな寝息を立てる晴明の耳元で囁いた。。

空は深い闇の色が薄くなり刻々と夜明けが近いことを知らせていた。
ざぁぁぁ・・・・風が庭を通り過ぎて御簾を揺らして通り過ぎていく。


どす
どす どす 
足音も高く廊を渡って来るのは忠行であった。
「晴明!!晴明は何をしておる!」
礼をとって頭を垂れる弟子たちに目もくれず忠行は一直線に晴明の室へ入ってくる。
「父様・・落ち着きなされませ。何をそのように・・・」
呆れたような声で保憲は忠行に声をかけた。
「おぅ!保憲 ここにおったか。 晴明は何処で何をしておる。」 
忠行は腰も下ろさず保憲を見下ろしている。
「晴明でしたらそこで眠っておりますが・・・」 保憲は顎で几帳の奥を指し示した。
「寝ているのか? この大事なときに朝寝など・・・」
忠行は几帳を避けて晴明の横に膝をついた。
常より浅いが胸の辺りが上下しているのを見る事が出来て確かな寝息が聞こえてくる。
忠行はそぅと頬へ掌を当てた。
「保憲・・・」 振り向きもせずに背後へと声をかける。
「父様。 なにか?」 保憲の惚けたような声が返ってきた。
「おまえ・・何かしたのではないだろうな。」
「なにか・・・とは、どの様な事でございますか。」
「術をかけるとか・・・・・・」
ふっと保憲が笑う気配がした。
「術など掛けましたのなら父様がお解かりになりましょう。そのような気配がございますか?」
言われてみればもっともな事である。
忠行は改めて晴明の寝顔に視線を向けた。
術の力も何かに憑かれた気配も感じることは出来ない。
・・・ ならば何故に晴明は目覚めぬのか ・・・・・
晴明は日ごろから気配には非常に敏い。 これだけ周りで人が動けば寝たままと言うのは有り得ない状況なのであった。
「まぁ たまには晴明でも眠気が勝ると言うこともありましょう。」 保憲が暢気そうな声で言った。
「おまえ 今日がどのような日であるか解っておろう?」 忠行が首を回して保憲を睨みつける。
「良いではありませぬか。 寝る子は育つと申します。 晴明もきっと大きゅう育ちましょう。」
保憲はそう言うと晴明の傍らに膝を進めるとそっと衾を肩口まで掛けなおしてやった。
「保憲・・・・おまえ・・・・」
忠行は確信した。 これは保憲の仕業だ。
ほぅ・・・・っと息を吐くと忠行は保憲を見詰めた。
「おまえ まだ覚悟を決めていなかったのか。往生際の悪い奴だ。」
保憲はそれには応えず苦笑いを浮かべている。
「このまま晴明が寝ておればまた良き日を占じなければならぬ。」 ぽつりと忠行が言った。
「良いではありませぬか。愛し子に関わることです。二度も占じる等と言うことは滅多にある事ではございませぬ。
真に父様は幸いでございますなぁ。」
保憲は暢気そうに応えると晴明の横にごろっと横になった。
「これでまた暫くは一緒に出かけられると考えておるのだろう。保憲。」
忠行は大きくため息をついた。
保憲は聞こえなかった風に愛おしそうに晴明の髪を手で梳いている。

「まったく・・・保憲よ。ほんにおまえは往生際が悪いな。まだ諦めておらなんだか。」
忠行が愚痴っぽく呟いて首を振った。
「おや?」 保憲は今更ながらと言うように忠行を見上げる。
「父様だって喜んでいらっしゃるのではありませぬか?ほれ そのように。」
保憲に言われてハッと気がつけば己の顔に笑みが浮かんでいる事に忠行は気がついた。
いかんいかん!!っと己を奮い立たせて忠行は応えた。
「しかし・・もう限界ぞ。」
「解っております。」
憮然として保憲は肯いた。

目の前で眠る晴明の寝顔は童のようにあどけなさが残っているがその四肢は伸びやかで瑞々しい若者の態であるのは明らかである。
これ以上己の想いだけで童形のままに晴明を置いておく事は何より晴明の為にもならぬ・・・
「それでもな・・・晴明。 もう暫くこのままであって欲しいと俺は思ってしまうのだよ。」
保憲は一人言ちてそっと晴明の頬を撫ぜた。
・・・ まったく ・・・ 保憲 おまえと言うやつは ・・・いや儂も同じか ・・・・
忠行は庭に視線を向けながらそっと呟く。
「良いか保憲。 次で終いぞ!」
殊更に声を荒げて断言すると忠行は室を出て行った。
ふぅっと息を吐き出して保憲は笑う。
・・・ 今暫く ほんに暫くこのままでありたいものよ ・・・・

やがて椛の葉が色付き季節は巡りその葉を落とし都に木枯らしが吹き荒れるようになっても晴明は相変わらず童形のままで過ごしていた。
保憲と共に祓いに出かけ 保憲と共に地神を鎮め時に笑い時に叱咤され・・・いつの間にか季節は姿を変えて行く。
ようよう晴明が髪を切り 結い上げたのは都にほろほろと天から雪が舞い落ちる或る日の事であった。


 












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