さわさわ・・

  さわさわ・・・

吹き抜ける風の音が心地よい芽吹きの季節である。
ようように長い冬を越え木々の枝にも米粒ほどの新芽が顔を覗かせている。
そんな景色を眺められる南の庭に開けられた広縁にいかにも楽しそうな人々の笑い声が響いていた。
若い男たちは声の中に何やら艶めいた響を含み、女性達の声には恥かしさが含まれ・・・
それでも声に嫌悪の色は感じられなかった。
笑いの中心にいるのは小柄な男で身振り手振りで何やら声音も変えながら話をしている。

「類 類はおるか。」
小柄な男の話に覆いかぶさるような逞しい声が庭の向こうから近づいてくる。
広縁に座していた女性がつっと膝立ちになり声のほうへと笑顔を向けた。

「まぁ 若殿様。 類はここに居ります。そのような大きなお声で・・・」
類と名乗った女性は声の主よりも幾分年嵩のようでまるで姉が弟を宥める様な眼差しであったがその包み込むような優しさは充分に声の主に届いたようである。
「声が大きかったか?それはすまぬ事をした。」
声の主は赤い紐で束ねられた髷に手をやりながらひょいっと廊に腰を下ろした。
身振り宜しく話をしていた男は庭に膝をつけ平伏した後にその場を去っていった。
周りで笑い転げていた者たちもそっと退く。

「類。」
「はい?信長様。」
「膝を貸してくれ。」
信長と呼ばわれた男は類の返事も待たずごろりと横になると頭を類の膝に預けた。
くふっ・・・
類の口元が緩み僅かに笑う声が漏れた。
「なんだ?」
眼を閉じて横になっている信長の眉が片方だけ上がった。
「何でもございませぬ。ただ・・・まるで童のようで・・」
「童のようで・・なんだ?」
「可愛らしゅうございます。」
袖口で笑う口元を覆いながらも笑うことを止めずに類が言う。
ふん!
拗ねるように体の向きを変えながら信長はそっと類の膝を撫でた。
「毎日のようにお城から馬を跳ばされてはお疲れになりましょう。」
「清洲からここまではほんの半時ほどよ。鍛錬にもならぬ。」

たんたん・・・たんたん・・・
軽い足音が廊を渡って近づいてくる。
信長は瞼を上げて音のするほうへと首を向けた。
少し離れた場所に軽い身のこなしで腰を下ろした男が見えた。
この屋敷の主人でも有る生駒八右衛門である。

「若殿様。 ようのお越しでございます。」
八右衛門は当時貴重な藁炭や運送業を営む富商である。
特に恰幅がよいと言うわけではないが多くの人馬を束ねるものとしての貫禄があり言葉の響にも力が漲っている。
おう!
信長は声を返して起き上がると視線を向けた。
しかし信長の目に留まったのは八右衛門の背後で何やら囁き退いていく若者の姿であった。
「八右衛門。」
「はい。」
「あれは誰だ?見かけぬ者だな。」
「若殿はなかなかに目聡くございますな。」
「警護の者には見えぬ。」
去っていった若者の後姿を視線で追いながら信長が言った。
八右衛門の頬が緩む。
「商人のようにも見えぬな。」
信長の左手は類の膝を擦っていた。
「気になりますかな。」
八右衛門は眼を細めて横になっている信長を幾分上から見下ろしていたが口を開いた。
「別に物を売るだけが商人ではございますまい。」
「形無き物を売ると申すか。」
信長の左手が止まった。
八右衛門の口元が穏やかに笑みを浮かべた。
「あの者は・・・」
八右衛門は姿の見えなくなった若者を追うように視線を廊の向こうへと流しながら言った。
「この家に雇われている者ではございませぬ。かと言って商いに訪れている訳でもございませぬ。」
八右衛門は謎を掛けるように信長の瞳を見詰めた。
「あれは・・・都の事にも詳しゅうございます。丹波の事にも越の事にも・・・我らが生業には必要な情報を過不足無く与えてくれる頼もしき若者でございますよ。」
「都?我が父が金を送ったとか言う貧しきところの事か?」
信長の言葉に八右衛門は苦笑った。
「若殿・・・あなた様はもそっと学ばないとなりませぬな。都を征せねば何時までも争い事は絶えませぬ。」
「人から施しを受ける者になんの力があると言うのだ。」
「若殿 それこそが眼に見えぬものでございますよ。あなた様が都へ上るような事が有りますればきっとお解かりになりますよ。」
八右衛門の応えに信長は改めてもう一度と言うように廊の向こうへと視線を投げた。
「信長様は聡い方に存じます。それはこの類には良ぅ解っております。
膝を貸したままの類が優しく信長の髪を梳いた。
「我が家は馬貸や炭を生業として居りますれば色々と諸国の話も耳に入ります。これらは眼には見えませぬ。
なれど耳に入ったものを形とするのが我ら商人の腕の見せ所 やり所と言うことでございますよ。」
八右衛門は穏やかに言った。
「戦も同じ・・であるか。」
信長は誰に言うでもなく呟いた。
ポンッと膝を打って八右衛門は破顔する。
「やはり若殿は聡い。」
「ほんに・・・」
期せずして類も同調した。
「煽てても何も出ん。俺はまだ一国を治めることもできない弱小者よ。」
照れたように瞳を伏せながら信長は類の膝から起き上がった。
「今のままで終わるおつもりか。」
八右衛門は探るような視線を信長に向けた。
「終わりとうは無いな。」
信長は空を見上げた。
芽吹きの季節の風が心地よく頬を撫でていく。
「八右衛門。」
信長がフイッと視線を戻す。
「先の者だがな。俺に預ける気はないか。」
「信長様。 先ほども申し上げたようにあの者は我が家の雇い人ではございませぬ。」
「ならば俺が欲しいと思ったら連れて行っても良いのだな。」
「あの者が諾と申せばこちらとしましては引き止める術もございません。」
八右衛門の応えにホゥ・・・信長は息を吸った。
「おまえはそれで良いのか?」
信長の問いに八右衛門の唇に笑みが浮かぶ。
「若殿のお供をするとあの者が言うのであれば引き止めることは誰にも出来ませぬよ。」
「そう言うものであるか。」
信長は八右衛門の答を反芻するように庭へ眼を向けた。吹き渡る微風に芽吹きの香りを感じる。
「あの者は風のような 雲のような・・・自由に生きておられる。ここにいるのもあの者の意思以外にはありませぬよ。」
八右衛門は幾分肩を丸めて言った。
「ふん。面白そうではあるな。ここへ呼んで確かめてみても良いな。」
それでは・・・っと八右衛門は後ろに控えている男に若者を呼び戻すように指示を出した。男は小さな足音を残して去って行った。
「宜しいですかな。信長様。参ずるかどうかはあの者次第にございますよ。」
「おう!まずは訊ねて見よと言うことであるな。」
信長は広縁の上に胡坐を掻いて座りなおした。

小さな足音が近づいてくる。
先ほどの男が若者を導くようにやって来た。
二人いるのに足音は一つだ・・・信長は思った。
訝しげに小首を傾げる信長から距離を置いて若者は静かに腰を下ろし物問たげに視線を八右衛門に向ける。
「このお方は清洲の若殿様だ。ぜひあなたとお話がしたいと仰せになっていらっしゃる。」
八右衛門は頬を緩めながら穏やかに言った。
若者の唇が僅かに動いた。
物好きな・・・っと信長には聞こえた。
ふっと眉を顰めながら信長は若者の顔を見返した。
今度はハッキリと唇が声を発した。
「いやでございます。」
信長は目を剥き八右衛門は苦笑った。

「まだ何も言っては居らぬ。」
信長は拗ねたように呟いた。
「うつけは好きにはなれませぬ。」
若者は広縁の向こうに広がる空を見上げながら言葉を継いだ。

話は終わったと言うように若者をスイッと立ち上がると一同に背を向けて立ち去ろうと歩を出した。
袖から見える細い指に信長の視線が流れる。

この指 どこぞで見た記憶が・・・ある。
信長は小首を傾げ若者の背を見詰める。
この髪・・・どこで・・・
信長はそっと瞼を閉じた。

さて どのように計らうか
八右衛門の眼が僅かに細められて信長に向けられている。
ふっと信長の肩頬に笑みが浮かんだ。
「おれは うつけでは無いぞ。」
若者の背にかけられた声は思ったより穏やかな声音であった。
ほう?
小さく息を吐いたかのように若者の背が揺らぎ歩が止まった。
「おれはな。大うつけよ。」
信長が続けた。
八右衛門と類が呆れたように信長を見詰める。
「おまえは・・おまえはカゲロウであろう。」
信長が決め付けるように言った。
くるり
若者が振り返った。
「お解かりか?吉法師様。」
カゲロウと呼ばわれた若者は皮肉めいた笑みを刻んだままに八右衛門の傍らに腰を下ろした。
「間違えではなかったか。いや・・しかし・・・歳が合わぬような気もする。」
幼名で呼ばれて記憶を手繰り寄せようと信長は髷に手をやりながら首を傾げた。
「見目など当てにはならないものです。」
カゲロウはしらっと応えた。
「ではカゲロウ。影朗で良いのだな。おれの城に来いと誘ったら如何するか。」
「相変わらず御気の短い事でございますな。」
カゲロウは袖で口元を覆った。

こう言う仕草が何処となくほかの者達と違うのだがな
信長は腹の中で思った。 だが口には出さぬ。

「若殿の元へ参りましょう。 ただし・・・」
カゲロウはじっと信長を見返した。
「ただし・・・何であるか。」
信長は背を後ろに引いた。
気がつかないうちに乗り出すように若者に近づいていたのであった。
「面白う事が無ければお暇をいたしまする。」
「飽きさせはせぬと思うぞ。」
信長は不適に笑った。
「おれはこの小さな領土では満足できぬ。父もそれを望んでいるはず・・さ。」
「さすがに大うつけ。面白う事を仰る。」
カゲロウは皓歯を見せて笑った。

「ならば八右衛門。この者は貰い受けたぞ。」
「ですから信長様。この若者は私のものではございませぬと申しておりますが・・」
ゆるゆると首を振りながら八右衛門は信長を見上げた。
決まったら早々にと言うのが信長である。
その身は馬の上であった。
「八右衛門。類も貰い受けるがな。お前の娘であろう?」
「信長様。類は娘ではございますが私の物ではございませぬ。」
「そうであるか。 では構わぬのであるな。」
「そちらも類の心持しだい。」
八右衛門の声に類の頬がうっすらと染まる。

「影朗 参るぞ。」
声と共に信長を乗せた馬が駆け出した。
ふわりと風が渡りカゲロウと呼ばれる若者が馬に遅れることも無く横について走り出す。

そうだ この感覚だ
この者は遅れぬ。 幼き姿のときも遅れをとる事などなかった。
面白き世になりそうだ。
「影朗。乗れ。」
信長は手を伸ばした。
その声にニィッと笑みを刻んで見返すとカゲロウはその手を掴むと馬に何の負担もかけずに背に収まった。

若者の息は乱れている風も無い。
信長は満足そうに一人頷き城へ向かって勇んで戻る。
眼の先に広がるは何処までも青い空
今は芽吹きの季節。

戦国の世に今 新たな風が吹き始めた瞬間であった。




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