ふわぁ~~

  ふぇふぇふぇぇ~~

明けぬ空はまだ闇の中
ポツン ポツンと間隔をあけて立っている街頭の灯が辺りを照らして僅かばかりの空間を明るくしている。
朝と呼ぶには早すぎる時間のことであった。
何とも奇妙な声を発しながら息を吐き出す気配が広がった。

ふわぁ~~ んん

今度は伸びまでしたのか欠伸の後に声が続いた。

「ねぇ。まだ夜だよねぇ。」
少し擦れた女性の声
「いや・・もうすぐ夜明けだから夜ではないな。」
落ち着いた響の男性の声が応える。
「それにしても こんな早い時間から何をするんですかぁ。ふぇふぇ~~」
まだ眼が開ききれないような恍けた声が割ってはいる。
「本当はね。夏でも良かったんだけど、そうするともっと早い時間に来ないといけないから・・・これでも随分と譲歩しているんだよ。」
落ち着いた声の主の返事には少し笑いが含まれている。
「探偵長~~。」
情けなさそうに二つの声が重なった。
「ほら! そろそろ始まる。」
探偵長と呼ばれた声の主が視線を少し上げて遠くを見上げた。

出町柳の駅に近い賀茂大橋の西詰めである。
眼の前には鴨川
左に眼をやれば河は二つに分かれ左側は賀茂川となり右側は高野川と名を変える。
何が始まるのかと訝しげに首を傾げる他の二人の眼に入ってきたのは真っ暗だった空を区切るかのような細く白い線が拡がって行く。
陽が昇ってきたのだ。
濃藍から紫にと色を変える空の色と共に細い線は次第に太くなりやがて稜線を浮かび上がらせた。
黒としか見えなかった山々は深い翠となりやがて輝くような緑へと変化してその全貌が眼の前に姿を現す。
空は薄い青へと色を変え染め忘れたのではないかと思うような白く雲が浮かんでいるのがはっきりと見えるようになれば朝の陽射しは徐々に下って山の麓へと届いていく。
川の流れが煌くようになった時 京都の街に住む人々の顔に朝がやって来るのだ。


「東山三十六峰だよ。」
探偵長がぽつんと言った。

ほぅ~~

どちらの物とも解らぬ吐息が聞こえた。

「こういった風情を昔の人は楽しんだんだな。夜更かしをしていてはお目にかかれないさ。」
探偵長が満足そうに言った。
「それは・・単に灯が無かったから早く寝たって事ではないですか。早く寝れば早く起きられると思うわよ。」
ふわぁ~っと欠伸をしていた女性が口を尖らせて言う。
「今はさぁ 夜中だって街は明るいわよ。それに・・・」
言いかけて女性は自分の腕が何かに叩かれているのに気がついた。

節子さん 節子さん 
はたり はたり・・・・
囁くような声と共に腕を叩いているのはふぇふぇ~っと欠伸をしていた小柄な影・・今ははっきりと姿が見える。
何処から見てもペンギンである。

「設定を忘れてはいませんか。あなたは秘書ですよ。秘書!忘れちゃっていませんか。節子さん。」
言われて節子と呼ばれた女性は大きく息を吸うと小さく頷いた。

「まぁ 暫らく間が開いていたからね。おいおい馴染んでくるさ。」
探偵長は苦笑いしながら出町柳の駅の向こう・・・こんもりと茂った木々に視線を送る。
「あの木々に隠れているのが下鴨神社。いくらなんでも知ってるよね。」
「探偵長の声にペンギンがもじもじと身体を揺らした。
「ん?知らなかったのかい?」
「いえ 存じております。ちゃんと資料も私の星に送りました。以前のときです。」
「そうだろうねぇ。高瀬舟まで有るのだからあの神社の資料が無いとは思えない。」
探偵長は一人頷いた。
「ただ・・」
ペンギンの声に探偵長も節子さんも期せずして同時にペンギンを見下ろした。
ご想像のようにペンギンは二人より背が低い。
話を聞こうと思うとどうしても見下ろす形になってしまうのだった。
「あっ!いえ たいした事ではないので。ただ河合神社を訪れてみたいなぁっと。」
「なぁるほど。確かにまだ行っていなかった様な気がする。」
探偵長は納得したように頷いた。
「そこは素敵な所かもしれないけれど今行かないとダメ?」
節子さんが話しに入ってきた。
「とんでもありません。今でなくともぜんぜん平気です。」
ふるふる
ペンギンは短い首を振った。

「それじゃぁ 何かお腹に入れない?朝が早かったし身体が冷えちゃったわよ。」
節子は大仰に両腕を擦った。
「了解。了解ですよ。節子さん。」
探偵長は笑いながら言うと川下へと眼を向ける。
ペンギンもこくこくっと首を振って同意を示した。
「京都には結構早い時間から開いているお店があるんだよ。」
「せっかくですから川の風情が感じられるところがいいですね。」
「珈琲が美味しいところがいいな。」
三者三様言いたい事を言いながら歩き出せばそれほど時間もかからずに一軒の店先から流れてくるコーヒーの香り。
「おっ!!」
探偵長が立ち止まる。
「そそられますねぇ。」
ペンギンが言えば
「美味しい食べ物も有るかなぁ。」 と節子さん
「山のように食べたいわけではないだろう?」と探偵長は行ってドアの前に立った。
今時珍しく手押しのドアは軽やかに開き途端に香ってくるのは焼きたてのパンの香りである。
珈琲の香りと相まって何とも食欲を刺激する。

三人は一番奥の窓際の席に腰を落ち着けた。
窓の向こう側には川の流れが見える。
この席は値千金だな・・・・・探偵長が一人ごちた。


テーブルの上には暖かそうに湯気を立てている珈琲のカップが三つ
厚切りのトーストも香ばしい香りとこちらも包み込むような湯気が上がっている。
バターは銀細工の小さな壷に入っていてバターナイフでお好きなようにと言うことらしい。
壷の横には蜂蜜を入れた容器までもある。 こちらは細工物のガラスで出来ているようだ。

「いっただきま~す。」
節子が嬉しそうにトーストに手を伸ばしてちょいっとちぎった。
千切れた先からほわぁっと湯気が立ち上る。
バターの入っている壷の蓋を取ってナイフを入れるとバターをたっぷりとトーストにつけた様はつけると言うより乗せたという方が相応しいかも知れない。
   そんなに一杯つけたらバターが足りなくなるのではないか
ペンギンは考えたが幸いにも壷の中にはバターがぎっしりと詰まっているタイプである。
探偵長はと言うとそれは見なかった事にしようと決めたらしく窓の向こうの川に眼を向けている。

「そうそう探偵長。」
ここは何とかっとペンギンは考えたのか思いついた事を言葉にした。
「ほら清少納言が書いているのは東山の事だったんですよね」
ほうっ?と言う顔で探偵長は顔を戻してきた。
こくり・・・と珈琲を一口飲んでペンギンは言葉を継いだ。
「春は曙ってところで山際すこしあかりて・・・って有りますよね。」
「今は春じゃないわよ。」
口にトーストを運びながら節子が言った。話は聞こえているらしい。

「京都の朝は東山からやって来るのさ。昔の人はきっと一年中東山の稜線がうっすらと明るくなって行くのを心ときめかせて眺めていたのだと思うのさ。」
探偵長は珈琲を一口飲んでから言った。
「盆地ですからね。上からだんだんと朝がやって来るって事ですね。」
蜂蜜をツンツンと千切ったトーストで突くとポイッと口の中へ放り込む。

「さて・・っとそれじゃぁ事務所へ出かけるかい?」
探偵長が空になったカップをテーブルに置くと二人を見回した。
「これからですかぁ?」
「早朝手当ては付くのかなぁ。」
其々勝手な事を言いながらも気分は悪くは無いらしく立ち上がる。

ドアを出ると出金に出かける人たちなのか足早に歩いていく人数が増えている。
ゆったりと空を見上げている人は見かけられなかった。
「み~んな忙しいのよねぇ。」
節子は大きく伸びをしながら言った。
「まぁ 仕方が無いですね。昔のような訳には行かないでしょう。」
短い首を振りながらペンギンが言った。

広い道をわいわいと言い合いながら歩く三人組にペンギンが混じっていることを咎めもせずにいるのは京都人の懐がふかいからだと思いたいところである。
まさか忙しさのために見えていないなんて事はないよなぁ・・・・
探偵長は一人呟いた。

太陽はそんな探偵長を頭上から穏やかに照らしていた。












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