ぽつり・・・乾いた土に一滴
忽ちのうちに激しい雨となり土の道には水溜りを作り始め慌てて走る人の足を捉え始めた。
急激に暗くなった空をちらりと見上げた若者は首を竦めて土手を下って少し先にある橋の下を目指して走り出す。

ザッザ ザッ

若者は過たずに橋の下へその身を押し込んで足を止めた。
橋の下は外の景色よりも猶暗く若者は何度か瞬きをした後に一点を定める。
「こりゃぁ!すまんこったな。先客かい?」
若者の視線の先には疎らに雑草が生えておりその一つに全身が黒い猫が瞼を閉じて座り込んでいた。
「まぁこの雨だ。邪魔はしないからちょいと雨が止むまでここにいさせてもらうぜ。」
若者は黒猫に声をかけ少し離れた場所の雑草の叢に腰を下ろして一つ息を吐き出した。

外の雨はいっそう激しさを増し止む気配も無い。
「なぁ。」 若者は顔も動かさず声だけで黒猫を呼ぶ。
「なんだか住みにくい世の中になっちまったよなぁ。おまえも野良だろ。」
雨に濡れて冷えたのかブルッと身を震わせた若者は誰にいうでも無く話す。
「まぁ 猫じゃぁ返事もできないだろうけれど・・・いやなら聞き流してくれて構わないぜ。」
若者の声にも黒猫は我関せずとばかりに身じろぎもせず目を閉じている。


徳川の時代が終わっちまってさ。江戸は東京って呼ぶようになったのはお前だって知っているだろ?
猫には関係無いかも知れないけどよ。
だけど江戸に住んでいた人間だってまだ大勢いる。名前が代わっても江戸と東京は地続きなんだから仕方がないよな。
確かに江戸の頃より明るくなっちまって・・・闇の数は減ったけどその分濃くなったとは思わないかい?
江戸に住んでいた妖しはこの少なくなった闇の中で息を潜めている事を知らない奴も増えた。

若者は一気にまくし立てると大きく伸びをしてチラリと黒猫に視線を送る。
何に反応したのか黒猫の耳がピクリ・・・と動いた。

まぁ それでもさ。
ちゃんと知っている奴らもいない訳じゃぁねぇ。
妖しもお互い様ってぇ感じで毎日を過ごしているのさ。
だからさ
若者は顔を動かすと黒猫を真正面から見詰める。
「おまえもそうなんだろ?普通の猫じゃぁ無いよな。おれには解るんだ。」
黒猫の目が開いてキラリと光った。
にゃぁ~~
一声啼くと関係ないというように後ろ足で首筋をかいている。
ふっと若者は笑うと黒猫に向かって身体を入れ替えるとポンッと黒猫の頭を軽く叩いた。

「おれは本所に住んでいた伝次ってぇんだ。七不思議とか言われていた中の一つさ。長続きのしない屋台の蕎麦屋だった。」
若者・・・伝次の言葉に黒猫が丸めていた尾を伸ばすとシュッと一振りする。
「あぁ面倒くさい奴と一緒になってしまったものだ。」
黒猫の口から人の言葉があふれ出てきた。
「たかだか三百年やそこらで偉そうに言うんじゃないぜ。」
「おっとぉ!!」
伝次は嬉しそうに黒猫を見詰めると繁々と見詰め返してきた。

「おれは沙門と呼ばれていた。」ぼそりと黒猫が言った。
「へぇ!!随分と洒落た名前じゃぁないか。寺の坊主にでも飼われていたのか。」
伝次の問いに沙門は鼻先で笑う。
「名をつけてくれた主は坊主は嫌いだったな。」
もっとも・・・沙門は暗くて桁も見えない橋を見上げた。
「沙門 おめぇは一体どれくらい生きているんだ。」 伝次が興味も露に声をかけてくる。
「しっかり数えたわけではないが千年ほどかなぁ。」
「そいつはすごいや。兄貴だね。いやご先祖様ってぇところかな。」
「妖しに先祖なんかいるのかよ。」
沙門が不満げに髭を動かした。

沙門は猫又と呼ばれる妖しだった。
もう長い間生きてきており幾つもの時の流れを肌で触れ目で見てきたのである。
それでも永遠の命を持っているわけではない。
普通の人間より長く生きると言うだけの事だ。

「まぁ雨も止まないようだし聞かせてやるからそこで静かにしていろ。」
沙門の言葉に伝次はへぇっと畏まって頷いた。


沙門と名乗った黒猫だったが今その名で呼ばれているわけではないっと語りだした。
不思議そうな顔で首を傾げる伝次を見やると髭をピクリと跳ね上げたのは笑ったつもりなのかも知れぬ。
猫又として生きていたころは名など無かった。
それに名をつけてくれたのは都の帝に仕える陰陽師の家に産まれた少年で保憲と呼ばれていた。
幼かった彼は非常に聡明で猫又と言う妖しを見ても脅えもせず騒ぎもせず式になれと誘ってきたのだ。
この契約は保憲が死んだ段階で解消される。と言うと伝次は半信半疑の表情でじっと黒猫を見ていた。
「人の方が先に死ぬだろうが。」
黒猫の言われて納得したように伝次は何度も首を縦に振った。

「沙門と名付けてもらったのはその時のことだ。」
「それじゃぁ今は沙門さんでは無いんで?」
「まぁ正式にはそうかも知れぬ。だがな。おれはこの名が気に入っている。
時と共に添うた人は何人もいたし勝手に名もつけてくれていたがな。」
黒猫は寄り添った人々を思い出しているのか目を細めて首を振る。

最初から人語が話せたわけではない。話せるようになったのは何時のころからか・・・

「陰陽師と言う仕事は知っているか?」黒猫が問うと伝次は曖昧に頷いた。
「江戸だった頃に胡散臭い形をした奴がいたな。たいした悪さをするでもない妖しを祓うとか言って消したりしていた。」
伝次の話に黒猫は ふむ・・・と小首を傾げた。
「そいつが陰陽師かどうかは解らぬが鬼や妖物を祓ったり消したりはしたな。」
ヒェッ!!伝次は後に跳び退いた。
「安心しろ。おれは陰陽師ではない。陰陽師と契約をした妖しだ。」
「良く解らないけれどおれを消したりはしないんだな。」
恐々と近寄ってきて黒猫の顔を覗きこむ伝次を見て黒猫は言った。
今のところは・・な

保憲が大人の儀式を迎える少し前の事だった。
妙に生白い顔をした童子が保憲の家である賀茂家の屋敷にやってきた。
人の子では有ったが剣呑な雰囲気が全身から溢れていてな。
おれは近寄らない方が良いと考えて保憲の陰にずっと隠れていたものさ。
ところが保憲はその童子をいつも傍へ置くではないか。その眼差しから慈しんでいるのが良く解った。
やがて保憲は大人と認められ陰陽寮へと出仕する官人となったんだ。
それからおれは保憲と妖物と何度も対決した。強い奴もいたし取るに足りない奴もいた。
ん?あの剣呑な童子はどうしたかって言うのか?保憲の後を追うように寮へ入ったさ。
保憲は強い奴だったがこいつも負けず劣らず方術に優れていた。
晴明と言う名だったが最初の頃にはおれと係わる事はあまり無かったな。
時に命を懸けた事もあった。それでも・・・
楽しかったな
黒猫はその頃を思い出しているのか目を閉じると何度か鼻先に皺を寄せた。

「兄ぃは恐くはなかったのかい?いくら妖しだって死ぬんだぜ。」
伝次は小さな声で黒猫に問いかけた。
「恐れるという気持は大事だな。江戸の人の子だってお前を見て恐れていたのでは無いか?」
「そう言やぁその通りだ。さすがに兄ぃだ。」
ポンッと手を打つ伝次に黒猫はフンと鼻を鳴らす。
「なんだか江戸の妖物は随分といい加減な奴なのだな。おまえだけか?」
黒猫はぼそりとつぶやくと話を進める。

保憲と常に伴にあったがやがてそれも終わりの日が来た。
人には命数が定まっておるからな。
保憲は類稀なその才と引きかえになったのか命数は少なかったようだ。
五十の齢を越えた辺りから床に臥す事が多くなった。
「兄ぃ。」
ズズッと叢を擦りながら伝次が黒猫に近寄った。ぐすり・・・左の掌で鼻を撫でている。
「保憲ってぇ強い人は死んじまったのか。契約はどうなったんだ。」
「だから人は命数が尽きると死ぬんだと言っただろうが。契約はな。」
黒猫は首をスッと立てて伝次を見た。
「喰らうのよ。」 黒猫の言葉に伝次はヒェッと声を上げて仰け反る。
「式の契約とはそうしたものだ。式を使える術者の身体を残しておいて良い事はないのだ。悪事に使われても困るしな。」
だが・・・おれは喰らわなかった。
そうだ おれが喰らう必要は無かったからだ。
「そうなんで?」 
ズリズリと近寄り伝次はまた黒猫の顔を見詰める。
晴明がな。片時も傍らを離れなかったのさ。どんな妖物でも近づく事はおろか髪の一筋も触れる事はできなかった。
常に僅かばかりの笑みを口端に載せて保憲が灰となって先の世に逝くのをじっと見送っておったわ。
それゆえな。おれは自由の身になった。ただの猫又に戻ったのさ。
「よござんしたね。」
伝次は曖昧な表情で言葉を挟んだ。
「良くはなかったさ。」

保憲がこの世にいないという現実がおれの前に突きつけられて身に沁みた時、おれは無性に寂しくなった。
胸の辺りが妙にちくちくと痛む。妖物を狩る気も失せた。
ただ毎日保憲の気配だけを追っていたように思うのだ。
晴明はまだこの世にあったのであいつの屋敷にも良く出かけた。あそこには他の何処よりも保憲の気配が濃く残っていた。
南庭や東の廂・・・なぜか奥の褥の間まで保憲の気配は残っていた。
おれが足繁く通うものだから晴明が笑ってな。
気の済むまでここに居れば良いと言ってくれた。
「おまえは寂しくは無いのか。」と訊ねたら
「おれは保憲様と先の世の約定を交わしている。」と言うでは無いか。
人と言うのは侮れんと思ったさ。

晴明もこの世を去り時代は大きく変化していったよ。
大きな戦が何度も起こり帝の権威も随分と軽んじられた。
それでもおれは死ねぬ。戦乱の炎の中で何人もの武将と戦いを伴にしながらも死ねなかった。
黒猫は不吉だとか言われてな。
「あっ!それは江戸の町でも言われていますぜ。」
伝次の声に
さもありなんと言う風に黒猫は耳を左右に動かした。

そのような中で面白がって傍らにおいてくれた武将もいた。
名も「くろ」だとか「ぬばたま」だとか色々と呼ばれたがおれは沙門だとしか思えなかったのだ。
「兄ぃは都の妖しなのに、なんでまた江戸にやって来たんで?」
ふっと気がついたように伝次が問いかけた。
外の雨は大分小降りになってきている。止むまで間もなくだろう。

「ここが都になるからだ。いや・・・なったのか。」
「そう言やぁ天子様がやって来たなぁ。」
「そうであろう?だからだ。」

おれは長い間ずっと考えていた。
保憲も晴明も人の子だった。
ならば転生を繰り返すはずだ・・・とな。
このおれは今日までずっと生きていたのだからあの二人が・・・保憲が転生をしてこの世に戻っていれば必ず解ると思った。
ずっと京の都にいたのだが巡りあえなんだ。
猫又は長く生きると言っても千年は長すぎるとは思わぬか?伝次。
あっあぁ・・・そうかも知れねぇ
ここは肯定すべきか否か
伝次は迷いながらも相槌を打った。

おれは保憲を看取った。
今度がおれが保憲に看取って欲しいのだ。これは妖しとしては贅沢な願いかも知れぬ。
それでもあいつの膝の中で消えて逝きたいのだ。

黒猫は伸ばした前足の上に顔を落とすと口を噤んだ。
真っ黒な身体が暗闇の中でも解るほど震えていた。

「兄ぃ・・・」
伝次は黒猫に手を伸ばすとそっと身体を擦った。
ピクリ・・
黒猫の身体が跳ねると四つの足でしゃっきりと立ち上がった。
「すまんな。つまらぬ話をしてしまった。雨も上がったようではあるし、おれは行く。」
「兄ぃ・・・・」
「すまんな。おれには時間があまり残っていない。」
「兄ぃ おれはさ風来坊みたいなもんだけどよ。江戸からの稲荷がここにはたくさんある。おれは祈るさ。」
「妖しが神に祈るのか?」
黒猫は髭を震わせて確かに笑ったあとで小首を傾げた。
ふむ・・・稲荷神か。悪くはないな。
黒猫の呟きに伝次は改めて言う。
「悪くないんならおれは祈るさ。これしかできないんだもの。」
「あぁ!頼もう。狐ならまんざら縁が無いわけではないからな。」
「会えるといいな。兄ぃ」
「あぁ。」

ぬかるんでいる土手を上がり空を見上げる。
黒雲は遥か彼方に進んでいた。
未知に人々の姿が増えてくる
右と左に伝次と黒猫が分かれたとき風向きが変わった。

ヒクッ・・・黒猫の鼻が動く。
ピンッと耳が立ち上がり髭が方向を定めるように広がった。

バシャッ バシャバシャッ
幾つもの水溜りを跳ね上げながら黒猫は走る。
こっちだ
この気配は・・・この気配は
転生ではない 覚醒したんだ。
そうでなければこんなに強く感じるはずはない。
黒猫は走った。
跳ね上がる泥水で背中まで泥に塗れたが気にもならない。
ここで離れたらあの膝の中で消える事は叶わぬ。
こっちだ
こっちだ

道を行く町人たちは老猫がよたよたと走るのを不思議そうに眺めている。
気にするものか
今を逃したら・・・おれは
気配が濃くなってくる
あの笑顔が脳裏に浮かぶ。
待っててくれ。抱き上げてくれ。
保憲 や・す・の・り

黒猫の足は止まらず、かつての江戸を駆ける。
道の端にはガス燈が仄かな明かりを灯し始めていた。



                  完














 
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