二十六夜の月には尊いお姿が見える・・・その姿を見ようと夜更かしをする者もいる。
深い闇の中に浮かぶ月が出るのはかなりの深夜になる為 殿上人は管弦の宴などを催し眠気を散らしたり、碁に勤しんで目を開いたりして月の出を待つ。
辺りは闇であるが空は晴れているらしく時折薄白く雲が見えた・・ような気もして皆の心は顔を出す月へと向いている。
そのような夜であったので朱雀門の上に音も無く蠢く物に気がつくはずも無く、黒い影は門の上から西の空を見上げているのだが誰に咎めだてをされるでもなかった。
黒い影が小さく肩を揺らして門の外へと姿を消そうとしたときであった。
あれほど静かであった空から雷鳴が轟きひんやりとした風が強く巻き出した。

「あなや。」
「何事ぞ!」
雅な風情は一転して慌しい物となりばたばた・・と人々の足音が辺りを覆う。
只ならぬ気配に陰陽寮に控えていた陰陽師が寮からわらわらと飛び出し風の吹いてくる空を見上げた。

ビィーン ビビィーン  ビィーン

鳴弦が響き渡り人々の心を更に不安に染め上げた。
陰陽師は其々起こりの原因を見極めようとじっと西の空を見つめる。
朱雀門の上の黒い影が肩を竦め係わらぬが幸いとばかりに音も無く門の外へ消えた。

バリバリバリッ!!

激しい落雷の音と共に建物の一部から火が上がる。
逃げ惑う者 腑抜けたようにその場に座り込む者。 健気にも貴人を庇って導く者・・・
先程までの暢気な気配は胡散して見つける事は出来ない。

騒ぎを他人事と大内裏の外に立った黒い影はゆったりと大路を歩みだした。

「お待ちを・・・」
背後から声がかかり、はて気配も感じなかったのだがっと訝しそうに影は足を止め首らしきものを捻った。
「酒呑童子様でございましょう?」
声の主はまだ冠を着けたばかりと思われる若き男であった。
ふふん・・・口の端に笑みを浮かべながら酒呑童子と呼ばれた影は正面から真っ直ぐに相手を見詰めた。
「晴明か。久しいな。」
揶揄するような言葉の裏に思いの他慈しみが滲んでいた。
「何をしてお出でであったか・・・と、お尋ねしたいのですが・・」
「ふん。気になるか?晴明。」
「この様な時でありますれば・・。」
晴明の目の端に笑みの為の皺が僅かに浮かぶ。
「それより・・良いのか?ほれ。」
酒呑童子は顎で朱雀門の向こう側を指し示した。
吹き来たった旋風の中に剣呑な気配が充満しているのが見て取れる。

ビィーン ビビィーン!
響く鳴弦の音に重なるように陰陽寮の者達が呪を唱えるのが聞こえてくる。

バンッ!ドーンッ!!

大路が揺れるほどの振動が伝わり上がっていた火が高く舞い上がり炎の華となって辺りに舞い散る。
灰色の煙の中から姿を現したのは黄金に輝く狐であった。
尾は見事に九つに別れ其々が風を呼び、舞い上がる火花を更に広げて行く。

大内裏の中の混乱が輪をかけている様が手に取るように伝わってくる。
ふ・・
その状況の中で晴明が確かに笑ったのを酒呑童子は呆れたように見下ろした。
「おまえとて陰陽寮とやらに属しておるのであろうが。」
酒呑童子の声に晴明は片眉をあげて見返してくる。
「私のような見習い如きが口を出すことでもありませぬ。」
「そうか。」
酒呑童子は話は終わったとばかりに背を向けて大路を下ろうと歩を進めた。
「あなた様は拘らなくて良いのでございますか。」
晴明の問いに酒呑童子は首を捩って晴明の瞳を覗き込んだ。
「俺が?この俺が何故に拘らなくては成らぬのだ?人の世は人が統べれば良いことだ。」
「なれど・・」 晴明は酒呑童子を見返した。
瞳の中に己の姿が映りこんでいるのを見つけて酒呑童子は一歩後ずさった。

朱雀門の内側では左右衛府の者達が繰り出す矢が飛び、風を切り裂く音が絶えず、陰陽師の唱える呪の声が更に大きく重なって騒ぎは広まっていく一方であった。

ちら・・とそちらへ視線を投げた後に晴明は視線を酒呑童子に戻して言葉を継ぐ。
「あれは異国からの妖しでございましょう?」
「そのようだな。」
「ならば・・あれに都を滅ぼされたなら・・・」
「滅ぼされたなら?」
「あなた様も存在出来ぬのでは有りませぬか?」
晴明の言い様に酒呑童子は息をとめて言葉を探す。
「あなた様はこの都に有る鬼・妖しを統べるお方・・・その都が亡くなれば都に巣食う妖しも存在できませぬ。ならば・・・」
言葉の裏に揶揄するような艶が含まれているのを酒呑童子は感じ取った。
「どうせよと言いたいのだ。」
「指図をするなどと・・思いも致しませなんだ。」
ただ・・・と晴明は言葉を継ぐ。
「あなた様も都に住まうもので有る事は確かでございましょう。」
「ふむ・・其れは否めぬ。」
「そうでございましょう。」 晴明の笑みが深くなった。

「さて・・・あの化け狐であるがな。」
酒呑童子が語り始めたのは海の向こうの話であった。

遠い昔、唐の国よりも遠い外つ国で狐は生まれたと言う。
生まれた時から狐と呼ばれていたかどうかは定かではないが、雨も降らず辺りは石と砂で作られた建物が並ぶいくつもの国を渡って唐国に辿り着いた。
狐と呼ばれるようになったのはこの頃の事である。
この狐は尾が九つに割れており不思議な妖術を使って人に変化した。
色を好むは、この国も唐国も変わりは無く、狐は唐の女人に変化することを思いついたのだと言われる。
その美しさに皇帝は己を失い、やがて・・国土は荒れ人心は離れ・・やがて国は滅びてしまった。

「だがな・・・」
酒呑童子は改めて晴明を見下ろして言葉を継いだ。
「その狐だとて国を滅ぼそうと思っていた訳では無いのだ。」
ひょいと小首を傾げる晴明に視線を投げた酒呑童子は小さく息を吸った。
「恐ろしかったのよ。」ぽつりと酒呑童子は言う。
「人が・・・と言う事でございますか?」
「そうだ。人は己と異なるものを恐れ忌み嫌う。これは何処の国であろうとも変わらぬよ。」
「美しい女人に変化したのは己を守る為の手段であったと・・」
「そうは思わぬか?ぬしとて解っておろうに・・」
ずい・・酒呑童子が晴明に近づき顔を覗きこんだ。
「それも否めませんな。」
晴明は強い視線で酒呑童子を見返す。
それで・・・
「あれは如何したものか。」 晴明は首を振った。
例え恐怖の念から起こした事でも人はそうは考えぬ。内裏に火を出した。
この顛末を如何に収めれば人も妖しも穏かに過ごせるのか。
「晴明よ。あやつは異国のものぞ。この国で育った技が通用せぬとは考えぬのか。」
酒呑童子が肩を竦めて見せた。

陰陽道は確かに海の向こうからやって来た。
しかし長い年月を経てこの国で独自の変化を遂げ、今や伝えた側の物とは全く異なってしまっている。
無論 伝わったままの技も残ってはいるのだろうが今の陰陽寮でそれを知るものは僅かであろう事は相違ない。
「案じる事はございませぬ。」 
何の躊躇いも無く晴明は微笑んだ。
訝しげな酒呑童子に向かって晴明が応えた。
「忠行様がいらっしゃいます。それに・・保憲様も。まさかお忘れでは有りますまい。」
「たしかにな。」
酒呑童子も苦笑う。
ほれ・・
晴明が指差す先を見やれば舞い散る火の花は勢いを減じ始めており、九つの尾を持った狐は朧となり闇の中に消えようとしている。
「あれは消し去った訳ではあるまいて。退がしただけであろう。」
酒呑童子は唇を歪めて鼻を鳴らす。
「良いではありませぬか。恐怖の念から起こしたことであればまずはこの場から消えるのが最良だと存じますよ。」
「甘いな。」
酒呑童子が言い放った。
「それはこの国に潜むと言う事ぞ。いつ何時どのような形で現れるかも知れないと言う事ぞ。」
「構いませぬよ。その時はその時・・・あなた様がお覚悟を決めて下されば宜しいのです。」
「俺か?ぬしではなく。この俺が覚悟を決める事柄なのか。」
酒呑童子は楽しげに問う。
「あなた様でございましょう。あれは妖しなのでございますから。」
「それを祓うのが陰陽師の役目ではないのか?」
「あなた様に言われとうはございませぬな。」
賢しげな物言いに酒呑童子は声を上げて笑い出した。
「ほんに・・・暫らく見ぬ間に口が上手くなった事よの。」
悪戯を見つかった童のように晴明も笑う。
「さて・・・騒ぎも収まったようだな。去ぬぞ。」
酒呑童子は大路を南へと足を出した。
「お待ちを・・」
「まだ何か有るのか?」
「お答えを頂いておりませぬ。」
晴明の声に
はて?何を問われていたのだろうかと酒呑童子は首を傾げた。
「お忘れに成られたとは言わせませぬよ。朱雀門の上で何をなされてお出でだったのか。」
あぁ そうであった・・・・
酒呑童子は遠くを思い返すように空を見上げた。
「何 たいした事がある訳でもないのだが・・な。」
ほう・・
晴明が業とらしく息を吐く。
「訳もなく朱雀門に上がっていたと。」
「月が・・」
「月はまだ昇ってもおりませぬよ。」
ピシャリと晴明が言葉を返す。
「ほんに・・・目敏い男よ。」
酒呑童子は何故か照れたように言葉を濁した。
「まさか見目麗しき姫に恋をしたとか・・」
揶揄する様に晴明が追い討ちをかけた。

ペシッ!

酒呑童子の右手が晴明の額を軽く打った。
「性もない男よな。その好奇心は童の時のままよ。」
「・・・で?何故に。」
今度こそ酒呑童子は大きく肩を落とした。
「笛がな。聞こえて来たのよ。それも極上のな。」
「笛?」

今日は二十六日の月であった。
殿上人は管弦の宴を催し眠気を散らしていた。
「それよ。」 酒呑童子が言う。
「際立ってよい音が聞こえてきてな。つい少しでも近くで聞きたくなって門に居たと言うことだ。」
「そのような者がおりましたか。」
取り澄ましたような殿上人の中にそのような名手がいただろうか?と晴明は管弦を奏していた者たちの顔を手繰ってみる。
地下人である晴明にとって殿上の人間を全て知っている訳ではないが今夜は警護も有った。
「まぁ 良いではないか。特に深い訳があったのではない。」
言い置くと酒呑童子はひらりと手を振ると南へと歩み始めた。
「お気をつけて。」
「この俺にそれを言うか。」
酒呑童子は苦笑いを浮かべながらも振り返ることはなかった。

酒呑童子が殿上人と笛を交換するのはこれより数年後のことである。
その殿上人が今宵の人物と同じかどうかは定かではない。

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