ふわ・・・
意識が浮き上がるように感じて閉じていた瞳を開いてみた。
急激にさまざまな音が辺りを覆い、耳元には水の流れる音が近い。

・・・ 俺は何処にいるのだ ・・・・
晴明は声にならないままに辺りを見回そうとしたが身体は動かぬ。
・・・・ そうだった。俺は殺されたのであった。 するとこの水音は三途の川と言う奴か ・・・
なんとも無しに可笑しくなってつい笑みを刻んでしまった。

「この虚け者が!」 
ジャリッと音がして晴明の首の横に杖が打ち据えられ厳しい声が浴びせられた。
「上人様?」 
動かぬ首を巡らせようとしたが動かず、已む無く視線だけで見上げれば長い白髭を蓄えた銀髪の男が己を睨んで見下ろしている。
「どうしてこのような所へ・・・」  晴明は小さく呟いた。
ふん! 上人と呼ばれた男は一つ鼻を鳴らす。
「おまえに言いたい事はいくらでもあるが・・・とにかく今は大人しゅうしておれ。間に合わなくなる。」
言い置くと上人は辺りを確認するように歩を進め何やら掻き集めているような音が耳に入ってきた。

ごとん  ばさり  どさり ・・・・・

何かを抱えて持ってくる事、数回。
晴明の周りに置き定める事を繰り返した後で上人は一つ大きく息を吐いた。
「幸いであったの。晴明。 欠ける事無く揃いおったわ。」 と皮肉っぽく言う。
月も隠れた真の闇の中で水の流れる音だけが轟々と聞えている。
「上人様。いったい何を・・・」 晴明は星も見えない空に顔を向けたまま尋ねた。
「おまえは殺されて切り刻まれたのよ。解らぬか。まったく。」 上人は軽く首を振った。
・・・・・ そう言えば ・・・・ 晴明は三日前の事に思いを馳せる。
「とにかく。 陽が昇る前に片付けるぞ。話は後だ。」
上人の声にハッと我に返った晴明はじっと上人の目を見詰めて頷いた。

穏やかな声が闇の中に広がって行く。
上人は複雑な呪文を唱えながら晴明の周りを囲むように歩を進めながら時折何やらに手を置く。
その度に
ぼぅ・・・小さく青白い灯がほんの少しだけ辺りを照らした。
ぐるりと晴明の周りを一周した後左手が晴明の首にふれた。
上人の声が一際高くなったように感じられた時 晴明は焼け付くような熱さを覚えて思わず眉を顰める。
「右手を上げて見せよ。」 上人の声にゆっくりと晴明は腕を空へと突き出した。
「ふむ・・・上手く行ったようだの。ならば左手を上げて見せよ。」
上人の声に無言で応えながらゆっくりと左手を空へと伸ばす。
先ほどまで身動きできなかった我が身が次第に自由に動き始めて行く事に晴明は感動すら覚えた。
こうして・・・
二本の足で河原に立ち上がり両の瞳は闇の中に煌く星を捉える事ができるようになったのは辺りの風が太陽を誘うように変化する直前であった。

「さて・・・と。晴明。申し開きはあるか?」上人は真正面から晴明を見据えた。
「いえ上人様。我が身の未熟を恥じるばかりでございます。」 
晴明は膝を河原につき頭を垂れた。


今から三年ほど前の事である。
晴明は陰陽の技を磨くべく海を渡り伯道上人の元へと旅立った。
元々才に溢れる晴明であったから僅か三年にして伯道上人からその技を余すところ無く享受し秘伝書まで授かった。
晴明が平安の都へ戻る日の朝の事。 上人は晴明に三つの事を戒めとして伝えたのである。
一つ 酒に飲まれてはならぬ。
二つ 無闇と言い争いにのってはならぬ。
三つ 女人に心を許してはならぬ。

晴明は深く心に刻んで帰国した・・・・筈であったのだが。

都で待っていたのは貴族たちからの宴への誘いであった。
名目は無事に帰国した祝であるが何の事はない、珍しい異国の話を聞きたいだけである。
それでも貴族は口々に修行を終えて戻った晴明を褒め称え都一の大陰陽師と持ち上げて酒を注ぎ続けた。
最初は師でもある伯道上人の言葉を守り酒を控えていた晴明であったが「豚も煽てりゃ木に登る」ましてや若く多感な年頃の事。
気がついた時にはかなり良い機嫌になって足元も危なくなっていた。
その状態で屋敷に戻った晴明はいるべき筈の無い人物を奥の褥で見てしまったのだ。
「梨花!これはどういう事なのか説明してもらおうか。」
晴明は傍らにいる妻の梨花に問うた。
褥で杯の中の酒をのんびりと干しているのは播磨の法師陰陽師の芦屋道満であった。
慌てる事の無い姿に晴明は二人の関係を瞬時に察する。
「誰と情を交わそうと構わぬが私の屋敷に引き込むとはどう言う事ぞ。」
脳裏に伯道上人の戒めが過り言葉だけは冷静を努めたが酔いの回っている脳はいとも簡単にその戒めをやり過ごした。
そんな晴明を嘲るように見上げて道満が口を開く。
「都一の大陰陽師とか煽て上げられて良い気になっているのであろう?晴明殿。」
「別に私が申しているわけではない。貴族共が勝手に申しているだけだ。」 
逆流する身体の血を抑えながら晴明は道満を睨みつけた。
「それも 今日で終いよ。」 道満は鼻先で笑うと応えた。
「何を申しておる?」
「奥儀を記した巻書を我が持っておるからさ。」 道満は何でもない事のように言った。
「我が祖 仲麻呂が吉備真備殿に託して伝わっている巻書か。」 
「他に何がある?」 道満が揶揄するように言った。
「莫迦な事を申すでない。あれは・・・・」 危うく秘してある所を口にしそうになって思わず言葉を呑んだ。
「いや 今はこの儂が持っておる。」
「そのような筈は無い。」
「ならばもし儂が持っていたら何とする。」 道満は首を回して正面から晴明の視線を捉えた。
「そのような事があるならば・・・おまえの好きにすれば良い。」
このような言い合いの結果 目の前に秘伝の巻物を目の前に突きつけられ気がつけば太刀で切られ河原で切り刻まれたのであった。

晴明が命を失った事を逸早く察知したのが遠い海の向こうにいた伯道上人であった。
船に乗ることもなく晴明が打ち捨てられた河原へとその身を移して生還させたのがつい夜明け前の事と言うわけだ。

「おまえは私が言った事を何一つ守らなかったではないか。 未熟者めが」
伯道上人はおとなしく頭を垂れる晴明を見下ろして言葉を発した。
「魂魄が分かれて間もなかったのも幸いであったがこのような事がまた出来ると思うてはならぬ。」
「はい 上人様。 以後厳しく律しますれば・・・」
「私が与えた術と技を使う間もなくこの世を去られてはたまらぬからの。」 
上人の言葉が少々嫌味を佩びるのはやむない事か。

「いかに妻と言えど女に心は許してはならぬと申したに・・・」
「あの巻書を道満に見せたは梨花でございましたか。」
「今頃気がつくか。この酔払いが。」 
コツン・・・上人の手にした杖が晴明の頭を軽く叩いた。

無事にこの世に戻って来たは良いが身につける衣とて無く陽が昇ってきた今となれば人の目もある。
流石に狼狽える晴明の様子を暫し眺めていた上人であったが
「市が開くであろう。買うて戻るまでその辺りの陰にでも隠れておれ。」
言い置くと指先から白い靄が飛び立ち市のある方向へと消えて行った。
「私は少しやる事がある。ここで待っておれよ。」 言葉と共に上人の姿も靄と消える。
ほぅ・・・・
息を吐いた晴明は河原に群生している草叢に身を潜めるように腰を下ろした。
「真に女人とは恐ろしき者かな。見目に惑わされるは愚かな事よの。」
誰に言うでもなく口先を窄めながら愚痴ってみるが応える者とて無く朝の風が草叢の葉先を揺らして通り過ぎていく。
ガックリと肩を落とす晴明の傍らに童が立った。 手には衣を手にしている。
「上人様の手のものか?」 問う晴明に童がこくりと頷いた。
河原の風で身体が冷えていた晴明は
クシュッ・・・ン
一つくしゃみをして衣に手を通し、腰の帯紐を締めていると上人が傍らに立つ。
「それでは行くぞ。」 
上人は見た目よりは遥かにせっかちな性質のようである。 
勝手知ったる何とやら・・・ずんずんと歩を進めて行き着いた先は晴明の屋敷であった。
「お前はこの辺りで姿を隠しておれ。」
門の前で上人は晴明を引きとめた後 独りで屋敷の中へと入って行く。

「晴明殿。安倍晴明殿はいらせられるか。」 上人の声が門の外まで聞えてくる。
何が始まったのか?と呼ばれた当の晴明は柱の陰でごくり・・・喉を鳴らして展開を見ている。

奥から二つの足音が近づいて来ると道満と梨花が寄り添うように姿を現した。
「何処のどなた様か存じませぬが我が夫 晴明は先日亡くなりました。」 梨花がさも悲しげに言う。
「然様。この儂もしかと確認してるから間違えの無い事ぞ。」 道満もしたり顔で言葉を添えた。
「ほぅ・・・・」 上人はさも驚いたという風に身体を仰け反らせ天を仰いだ。
「それは真に間違えの無い事なのですかな。」 上人は二人に問いかけた。
「間違えの無き事ぞ。」 「確かに亡くなっております。」 今更何を・・・っと二人は声を揃えて応えた。
「それは奇異な事ですな。」上人は肩を竦めて言う。
「何が奇異なのですか。晴明とて人ですから亡くなる事は世の理ではありませぬか。」
「いや・・亡くなる事は不思議でもなんでも無いが私は先ほど晴明殿にお会いしたのですよ。」
上人は二人に視線を向けて穏やかに言った。
「そのような事がある訳がございませぬ。お人違いをなさっているのでは・・・」 
「然様であろうかな。」 上人が言えば
「然様でございますよ。」 二人は声を揃えた。
「ならば・・・この場に晴明殿が現れたら何とする。」 上人は笑いながら問いかけた。
「もし然様な事が真ならば儂は晴明の弟子になろうぞ。さもなくば晴明の言うとおりに致そう。」
道満は腕を組んで応えると視線を上人へと向けた。
「私は弟子にはなれませぬが夫の思いのままに致しましょう。」
二人はどこか嘲るように言葉を揃えた。
上人の頬に笑みが浮かぶのを見て二人は訳も無い不安を覚えたがここで否定も出来ず黙って上人を見詰め返す。

緩やかに上人の身体が外へと向けられ一声掛ける。
「おい 晴明。姿を見せよ。」
上人の声にふらっと屋敷の中へと入ってきた人物を認めると二人は真っ青に色を失ってその場に腰を着いた。
舎人のような着衣で烏帽子も被らず総髪ではあったがその相貌は紛れも無く安倍晴明その人であった。
「残念だったな。俺は死んではおらぬよ。」
描いたように美しい唇から漏れる声が地獄のそこから聞えてくるようである。
切り刻んだ者が何故に生きているのか・・・考えは追いつかず二人は床に手をついて震えるばかり・・・
「さて。 道満。どうしてくれようなぁ。」 口角が上がり笑みを刻むその表情さえ獄卒のように見える。
常日頃は整った美丈夫と言われている晴明だけに殊更に凄みがあると道満は思った。
「わっ・・悪かった。約束通りおまえの弟子になる。」
「弟子だぁ?傍らに置いて寝首でも掻かれては適わぬよ。」
晴明はグイッと道満の襟を掴むと思い切り引き寄せた。
「今この時よりこの場を去れ。殺めはしないが俺の邪魔をするでないぞ。播磨へでも何処へでも疾く消えよ。」
ドンッ
道満の身体を押し出すと晴明は床で震える梨花へと視線を向けた。
「梨花・・・おまえも殺める訳には行かぬ。賀茂との繋がりがあるからな。」
命を失わないで済むと言う事でホッと安堵した表情の梨花へ晴明の容赦ない声が落ちてくる。
「北の別邸に去れ。命数が尽きるまでそこで過ごせ。誰を引き込んでも構わぬが俺は二度とは通わぬ。」
ハッと顔を上げた梨花を見る事も無く晴明は上人へと視線を変えた。
無言のままに頭を垂れる晴明を見て上人も無言のままに頷いた。

「私の言うた事を忘れずに守って授けた術を更に昇華させよ。よいな晴明。」
「此度は真にありがたく思うております。上人様の教えを守りこの都で精進してまいります。」
頭を垂れる晴明の前にいる上人の姿が徐々に薄くなりやがて朧げな靄となって消えた。


「あぁあ ほんに女人は恐ろしき者よなぁ。やはり都の雅として戯れるが何よりだ。」

道満が去り、梨花が北の屋敷へと移って今は独り自邸で寛ぐ晴明は庭を眺めながら独り言ちた。
応えるものも無く季節の風が木々の枝を揺らして通り過ぎて行く。

その後 内裏の女御や更衣達が何やら騒めいて枝折や文箱が飛び交う事が増えたとは事情通の間で専らの噂となったのは晴明の知らない話。

真に女人とは逞しい
  真に女人は恐ろしい
真に女人は・・・愛らしい者よ

都の風は今日も雅に都を吹き渡って行く。