昔々 或る所にそれはそれは深い森が有りました。
人が滅多に入る所ではなくこんもりと繁った木々の葉が豊かに広がって季節の恵みを享受する場所でもありました。
この森の中に狐の家族が住んでおりました。
父狐と母狐の深い愛に包まれて幼い子狐はすくすくと成長していたのです。

或る冬の事・・・・父狐が出かけたまま戻って来ませんでした。
きっと他の大きな動物に殺められてしまったのかも知れません。
自然の生活と言うのは飢えとの戦いでもありました。
父狐は家族の食事を得るために出かけ戦いに敗れてしまったのでしょう。
母狐と子狐は互いの身体を寄せ合いじっと時の経つのを待っていたのですが空腹は否応無しに二匹を襲います。
とうとう母狐は子狐を置いて狩に出る事にしたのでした。
「いい?必ず戻ってくるからもう暫く我慢をして待っているのよ。」 母狐は言いました。
こくり・・と子狐は首を縦に振ったあと母狐をじっと見上げたのです。
母狐は愛おしそうに子狐を見るとピョンッと身を翻すと森の外へ消えて行きました。
木々が芽吹く少し前の事でありました。

それから・・・子狐はじっと森の奥の洞で母狐を待ちました。
木々の緑が美しく芽吹き風が変わって行きましたが母狐は戻ってきません。
「母様・・・」  子狐は空腹と不安で何度も森の外にある空を見上げました。
・・・・ 母様は戻ってこないのだ ・・・・
子狐は何かを感じたのかとうとう森の外へ出る事にしたのです。
金茶色の毛が風を受けてゆらゆらと揺れて子狐はその心地よさに思わずうっとりと眼を細めます。
・・・・・ 森の大きな獣には気をつけるのよ ・・・・ 母狐の言葉が蘇り子狐は思わず辺りを見回しました。
幸い見える所には己を襲いそうな大きな獣は見えません。
子狐は走りました。 走って走って走って・・・・・大きな崖の端までやって来ました。
初めて見る世界です。 眼下にはいくつかの人家が見えます。
「あれが母様の言っていた人間の住むところなのか。」 子狐は物珍しそうに暫く眺めていましたが思い切ったように崖を駆け下りたのです。

真っ赤な高い柱が天を突くように建っている所に来ました。
「これは何なのだろう?」 子狐は小首を傾げて視線を柱の上へ向けました。
柱を繋ぐ真っ赤な物が青い空を遮っています。 子狐は恐る恐る足を進めます。

「母様! 父様!」 子狐は叫びました。
目の前に両親に良く似た狐が座っていたのです。 しかしその狐は子狐を見る事は無くじっと坐したままです。
おずおず・・・・子狐は近づいて見上げました。
幼い子狐にもそれが生き物では無い事は解りました。
・・・・ 母様 ・・・・・ それでも子狐は呼びかけずには要られませんでした。
空腹と疲れで頭は朦朧としています。 生き物では無いはずの狐が優しく微笑んだような気がして子狐は安堵したまま意識を手放したのです。


・・・・ 子狐よ ・・・・・
呼ばれたような気がして子狐は目を覚ましました。
ひんやりとした空気の中で周りには誰もいません。 
月の青白い光を受けて動かぬ狐が昼間と同じ場所に坐しているだけです。
「夢だったのかな。」 子狐が呟くとその視線の先に金色に揺らめく光が見えました。
ハッとして子狐はその光を見つめると不思議な声が聞こえてきます。
・・・生きたいか?・・・・・・
「はい。」 子狐は迷う事無く応えました。
・・・ なれど その姿のまま生きていく事は難しい。 いっそ人になってみる気は無いか?・・・・・
「人になる事ができるのですか?」 子狐は人と言う物が良く解りません。
・・・・・只という訳にはいかん ・・・・・
やっぱりそうだよなぁっと子狐は考えました。
 そんな調子よく与えて貰える物ではないと言う事は子狐でも解ります。
「私には何も差し出すものがありません。」 
子狐は哀しそうに首を垂れました。
・・・・ このままお腹を空かせて飢えて死ぬしかないのだろうか ・・・・・
 子狐の瞳からポロリと涙が零れます。
「何も無いのですから狐のままに父様 母様の元へと参ります。」 子狐は光に向かって言いました。
・・・・なかなかに潔い子狐よの ・・・・光がふっと笑ったように子狐は感じました。
ムッとした子狐は鋭い視線で光を睨みます。 
「揶揄うのは止めてください。」 子狐は声を搾って叫びます。
・・・・ 揶揄ったりはしておらぬ。 おまえを人にする代わりにその見事な毛を我に差し出せ ・・・・・
光の声に子狐は驚きました。 
風を受けて揺らめく金茶色の毛は好きでしたがいつも見慣れている物で特別な物では有りません。
「この・・・毛を差し出せば良いのでしょうか。」 
子狐の声に光は肯いたように見えます。
「人と言うのは毛が無くとも生きていけるのですか?」 子狐は問います。
今度こそ光は声を出して笑い出しました。
 ・・・・ おまえは何も知らぬのだな ・・・・・・ その毛と引き換えにおまえを人にしてやろう。 
その金茶の毛は永遠におまえには戻らぬが・・・・

声と共に子狐は眩いばかりの光に包まれ辺りが見えないほどに成ったのです。
思わず眼を閉じた子狐に声が続きます。
・・・間もなく陽が昇る。 おまえは人となる ・・・・・・
子狐は瞳を閉じたままにその声を聞いていました。
やがて・・・瞼の中が穏かな明るさに包まれるのを子狐は感じてそっと瞳を開いたのです。
恐る恐る我が身を見ます。 全身を覆っていた金茶色の毛は何処にもありません。
抜けるように白い肌と細い指先・・はらりっと肩にかかる黒髪。 初めて見る人としての姿です。
・・・・悪いな。 金茶色の毛を受け取った心算であったが・・・其の色まで持ってきてしまったようだ ・・・・
何処からともなく声が聞こえて来ます。
「これが・・・これが人と言う物なのですね。」 子狐はあちこち指で触りながら呟いた。
・・・・この先の階を上れ。 衣が一つ有る。 着付けは解らないであろうから肩から掛けよ ・・・・
聞こえる声に導かれ子狐は階を上った。 二本足だけで歩くのはなかなかに難しいなっと考えながら。
蘇芳色の単衣が一つ・・・言われたままに肩に羽織る。
裾の先に見えるのは子狐のときを思わせるしなやかな細い二本の足でありました。
・・・・間もなく人がやって来る。 その者にこう言え。
「私を弟子にしてください。」 
それでおまえはこの地で生きてゆける ・・・・
声はそれきり聞こえなくなりました。


子狐は上ってきた階の下へ身体を回しました。
見つめる視線の先に一人の男がやってくるのが見えます。
・・・ あの人に言えば良いのだな ・・・・・ 子狐は人の男が上ってくるのをじっと待ちました。


男は階を上ろうとして自分を見つめる視線に気がつきました。
面を上げて見上げると不安げに揺れる瞳と絡まったのです。
眩しいほどの朝陽を受けて立つその童は総髪で肌の色は抜けるように白く実体を伴わないかのように儚げに思えたのでした。

男が一歩一歩と階を上り童の表情が読み取れる距離になったとき童の口が開きました。
「私を弟子にしてください。」
いきなりの言葉に男は動揺を抑えることが出来なかったのですが何故か拒む事は許されないような心持になり首を縦に振ったのです。
童の表情に安堵の色が濃く広がるのを男は不思議そうに見つめるだけでした。
見上げれば何処までも青い空・・・風が爽やかに吹き渡って行きます。
まさに清明節と呼ぶに相応しい朝の事でした。

昔々 或る所にそれはそれは深い森が有りました。
人も寄り付かぬほど深い森の中で育った子狐は平都で人として生きる事を選択したのでございました。




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