チリッっと走った頸もとの痛みに意識が浮き上がるのを感じた。
まだ覚醒しきらぬ不安定な瞳が揺れて自分を見下ろしている朧なるモノを捉えた。
「・・・だれ?」 晴明は問うとも無く声を発した。


・・・・・・・・・・・・・・「横道無きもの」空白の三日間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「鬼・・・なのですね。」 晴明が朧の黒い姿に声を掛けた。
「驚かぬのか?」 ぱっくりと割れた口らしき所から声が響く。
「物心ついた頃からの付き合いですから・・・」 皮肉るでもなく静かに晴明が応える。
「恐ろしくは無いのか?」 
「鬼よりも恐ろしいものが都にはたくさん蠢いております。」
漸く意識がハッキリして来たのか晴明が身を起こした。
灯火が有る訳でもないのに辺りがぼんやりと明るさを保っている。
パチッと木の爆ぜる音がする。
離れた場所で火を燃やしているのかも知れぬ・・・

「私は喰らわれぬままにいるのですね。」 晴明が朧な姿を見上げた。
「おまえを喰らおうとは思っておらぬ。」
「食べ応えがございませんか?」 晴明の言葉に朧なる姿が僅かに笑ったように感じた。

「欲しいのは肉ではなくおまえの血よ。」
「そのようなもの・・肉ごと喰らってしまえば良いのに。」
「喰らってしまっては二度と血は手に入らぬ・・・」
その声に晴明が見上げれば若く凛とした姿の公達が自分を見下ろしていた。
「そのように無理をなさらなくても宜しゅうございますよ。 形を成すのは負担がかかりましょう。」
「ふん 見ていないようで見て居るのだな。」 公達は苦笑いをすると緩く髪を束ねただけの水干姿へと変化した。

「あなたはどのような鬼なのでございましょう?」
変化した鬼の姿にも全く表情を変えず晴明が訊ねた。
「名前など無いが・・・都では酒呑童子と呼ばれているようだ。」
・・・・この名前も随分と長いこと使われているが・・・

「あなたが酒呑童子・・・」
晴明の瞳に僅かな表情が浮かんだ。
「何故 私はここにあなた様といるのでしょうか。」
「羅城門から我が連れてきたからに決まっておろうが。」 酒呑童子の声が笑いを含んだ。
「その場で喰らってしまえば良かったのに・・・」 晴明が俯いたまま言った。
「また・・そこか?」 話は最初に戻ってしまったようである。

「この身の血がそれ程必要でございますか?」
「おぅ! 我ら鬼にとっては何よりの甘露・・・できるものなら常に手元においておきたいものよ。」
「ならば・・そうなさいませ。 邪魔な者が消えたと喜ばれる事は有っても心砕くものはおりませぬ。」
「しかし・・・此度はそうも行かぬ。 明日の夜には戻すと言うておるのでな。」
酒呑童子の言葉に晴明の眉が僅かに顰められた。
「そのようなたわいも無い約束など・・・違える事を人はいくらでも致します。」
晴明は事も無げに言った。
「鬼には・・・横道は無いのだよ。」 酒呑童子が穏やかに応える。

「私は戻る事になるのですね。」
「あぁ 羅城門までは戻さねばならぬ。 その後は・・・」
「その後は?」
「知らぬ。」 酒呑童子が素っ気無く応えた。

「戻る事が必定であるならば今ここでこの身の中にある血をあなた様が全てお持ちになれば良いのでございましょう。」
「それも出来ぬ。」 酒呑童子は頸を振った。
「何故でございます?私は命を惜しいとは思っておりませぬ。」
「申したではないか。羅城門までは戻さねばならぬ。 それにな・・・」
酒呑童子の貌がズイッと晴明に近づいた。
「生きておらねば一回きりよ・・・。」 
「そう言う事でございますか。」
「そう言う事だ。おまえが生きておれば何度でも・・・」 酒呑童子は怜悧な笑みを浮かべた。

三日目の夕刻・・・

「私はこれで戻る事になるのでございますね。」
「あぁ 間もなく約束の刻限になるな。」
酒呑童子が晴明に視線を向けた。
「ならば・・・酒呑童子様。」
「ん?」
晴明の声に違和感を覚えて酒呑童子が振り向いた。
「お呼びくださいませ・・・・いつでも・・・」
「また来ると言うか・・」
「この私が必要なのでございましょう?」
投げ掛けられた晴明の悩ましげな視線に酒呑童子は瞠目した。

「刻限になるな。」
晴明の問いには答えず酒呑童子は立ち上がった。
「酒呑童子様・・・今一度・・・」
瞳を閉じる晴明の肩に酒呑童子の手が掛かる。
白く華奢な首筋に牙が突き刺さりツッと血が滲み出た。
ざらり・・と酒呑童子の舌が舐め上げて溢れた血は痕跡も残さない。
三日前に負った酒呑童子の深い傷が完治の近い事を告げている。
それはこの血のせいなのか・・・・。

「参るぞ。」 酒呑童子の声が晴明の頭の上で響く。
やがて・・・緋色の水干に包まれて晴明は羅城門へと運ばれていく。
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